チェコスロバキアの哲学者,政治家。モラビアの農村の生れ。徒弟奉公などを経験したが,苦学の末ウィーン大学を卒業し,1879年には大学教授資格を取得し,82年にプラハのカレル大学(現,プラハ大学)に新設されたチェコ人部門の哲学教授となった。学者としては論理学,歴史哲学,ロシア思想など,広い分野で著作を発表し,当時は新しい学問であった社会学を初めてチェコに導入したことでも功績があった。また当時の社会問題にも関心を示し,しだいにチェコ人の民族運動にも加わるにいたり,オーストリア帝国議会にも議席を得たが,キリスト教的ヒューマニズムに基づく民族主義を唱え,排他的民族主義を批判した。第1次世界大戦中,西欧に亡命し,そこで独立運動を展開した。1918年のチェコスロバキア独立で初代大統領に就任。35年に引退するまで強い政治的影響力をもち,同国の議会政治の安定に力を尽くした。
執筆者:稲野 強
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1850~1937
チェコの政治家,哲学者。モラヴィア出身。ウィーン大学で学び,1882年にプラハ大学の社会学・哲学教授に就任。91年に青年チェコ党選出のオーストリア帝国議会議員。1900年には自由主義的なリアリスト党(チェコ人民党)を組織し,オーストリア批判を展開した。第一次世界大戦中は国外で独立運動を指導。1918年のチェコスロヴァキア独立で初代大統領に就任。西欧型民主主義を擁護し,極端な民族主義を排して,35年に引退するまで同国の議会政治の安定に尽力した。主著『チェコ問題』『ロシアとヨーロッパ』。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…しかし67年オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立によってハンガリーに大幅な国家主権が付与されると,ハンガリー化政策はふたたび強化され,スロバキア語ギムナジウムとマチツァ・スロベンスカーは74-75年に閉鎖された。その後もスロバキア民族運動はマルティンを拠点として維持されていたが,世紀末ころにチェコ人哲学者T.G.マサリクの思想に啓発されたグループ(フラスHlas派)が形成され,チェコ人との文化的連帯運動を促進した。1905年にはカトリック神父フリンカに率いられたスロバキア人民党運動も形成された(スロバキア人民党Slovenská l'udová stranaとしての正式創設は1918年)。…
…また,この時期のスロバキアについては,〈スロバキア〉の項目に詳しい。
[戦間期の第一共和国]
1918年10月,T.G.マサリクによる〈ワシントン宣言〉に続いて,プラハの国民委員会がチェコスロバキア国家の成立を宣言した。スロバキアでも〈マルティン宣言〉が出され,〈チェコスロバキア民族〉の国家が形成されることになった。…
※「マサリク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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