デジタル大辞泉 「ラン」の意味・読み・例文・類語
ラン(run)
2 野球で、ベースを一巡して得点すること。「ツー
3 映画・演劇などで、興行が続くこと。また、興行の順序。「ロング
4 ほつれること。靴下などが伝線すること。「ノー
5 コンピューターで、処理装置が一連のプログラムや処理を次々に実行すること。また、その状態。
6 ゴルフで、打ったボールが落下地点から転がること。また、その距離。打った地点から落下点までの飛距離をキャリーという。→キャリー2
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
単子葉植物のラン科Orchidaceaeに属する植物の総称。ラン科は約700属2万5000種からなり,被子植物の中でもっとも大きい科の一つである。美しい花を有する種が多数あり,重要な観葉植物になっている。両極地帯を除く南北両半球に広く分布するが,熱帯の雲霧林に種類が多い。日本には琉球を含めて73属約220種がある。
多年生の草本,まれにつる状または灌木状になる。地生または着生植物で通常,独立栄養を営むが,ときに腐生する。根は不定根でまれに塊根となり,通常,菌根性である。茎は地上性で長く延びるものから,短縮し,さらに地下性の根茎になるものまでさまざまで,しばしば偽球茎が発達する。葉は単葉,通常全縁で,平行脈をもち,基部は葉鞘(ようしよう)となる。花序は穂状,総状または円錐花序となり,花は左右相称で,通常両性花である。花被片は3枚の萼片と3枚の花弁からなり,さまざまの程度に合着する。花序軸に面した花弁は,形や色彩が他の花被と異なり唇弁と呼ばれるが,多くのもので子房が180度ねじれるため,開花時には花の花茎の反対側(背軸側)に位置するようになる。多くのものではおしべとめしべは合着して蕊柱(ずいちゆう)を形成し,柱頭の一部は通常くちばし体を形成する。花粉塊は2個から8個,粉質または蠟質。子房は下位,側膜胎座まれに中軸胎座を有し,果実は蒴果(さくか)または肉質の不裂開果となる。種子は多数で微細,胚乳がない。ショウガ科やバショウ科,あるいはヒガンバナ科に類縁があるといわれている。
ラン科は大きく5亜科に分けられる。ヤクシマラン亜科は,中軸胎座,めしべとおしべの合着が不十分で,唇弁はとくに分化しておらず,ほぼ放射相称花になるなどの特徴をもち,通常のランと一般の単子葉植物を結ぶ原始的なランと考えられている。2属からなり,日本にはヤクシマラン,1属1種がある。アツモリソウ亜科は内輪の2本のおしべに稔性があり,唇弁は発達し,袋状になる特徴がある。4属約100種からなり,日本にはアツモリソウ属5種が自生する。他の3亜科は外輪の1本のおしべだけに稔性があり,唇弁はよく分化している。チドリソウ亜科は主に地生のランで茎的性質を有する塊根を有し,花は基部で蕊柱と幅広く合着した葯と,いくつかの部分に分かれる花粉塊などで特徴づけられ,日本にはツレサギソウ属,ハクサンチドリ属などがある。サカネラン亜科もやはり地生ランだが,基部で細いささえを仲介として反転ぎみにつく葯,粉質の花粉塊などで特徴づけられ,カキラン属,トキソウ属,シュスラン属などが日本に産する。ラン亜科は着生生活に適応したグループと考えられ,大部分の着生ランが所属する。この亜科はさらに茎が仮軸分枝をするグループと単軸分枝をするグループに分けられ,前者にはエビネ属,シュンラン属,クモキリソウ属,セッコク属などが,後者にはフウラン属,カヤラン属などが属する。チドリソウ亜科,サカネラン亜科,ラン亜科は一つにまとめられ,ラン亜科とされることもある。
ラン科植物の菌根性,微細で多量の種子,多彩な花の形態や色は互いに関連しており,全体として進化してきたと考えられる。すなわち胚乳をもたない微細な種子は,自然状態では少なくともその発芽初期に菌から栄養の供給を受けないとうまく発育できないことが知られている。そのことは逆に菌との共生関係が成立したために,種子が小さくなり,多量の種子を散布することができるようになったともいえよう。種子数,いいかえれば花の胚珠数の増加に伴い,その多量の胚珠を有効に受精するためには,花粉数をも増加させなければならなかったであろう。この大量受粉の必要性から,花粉塊が形成されるようになったと考えられる。また,まとめられた少数の花粉塊を損失する危険性をなるべく減少させるため,ランの花は特定の動物(おもに昆虫)の特定の部位に花粉塊を付着させるさまざまのくふうを進化させてきた。ランの特定の種の花形と昆虫の吸蜜行動の適合性は著しいものがあり,共進化coevolutionの代表例とされていることがある。なかには昆虫の雌の形や発散するにおいを擬した花を有し,雄に交尾行動を引きおこさせ花粉塊を運搬させるほど特殊化した種類も知られている。受粉における昆虫との1対1の種対応関係が明確になっているためか,ランの仲間では種や属間の植物自身の遺伝的隔離機構が発達していない場合がしばしば見られる。このため,人為雑種がつくりやすく,園芸品種の育成に重要な役割を果たした。また種子が小型であることは明らかに風散布に有利であり,樹上着生生活に適応する一つの原因となったと思われる。微細な風散布種子をつくるにもかかわらず,ランの種分布域は,多くの場合それほど広くはない。着生ランが熱帯で多様に分化する契機になったのは,花形を通しての交配機構の分化が重要な役割を果たしたのであろう。
ラン科は,被子植物の中でもっとも多くの種を有し,茎や偽球茎という多肉化した部分を有するにもかかわらず,人類によって食用とされる種の少ない植物群である。主食としてはもちろん,野菜や果物としてもほとんど利用されていない。それと対照的に,著しい花形の変化や香りを観賞するという点では,ラン科ほど珍重される観賞用植物は他にない。開花期間も長いし,着生ランでは乾燥にも強く,栽培がそれほどむずかしくなく,苗の長距離輸送もやさしいことが,園芸植物としてのランの利用を発展させたのであろう。観賞以外の利用としては食品香料となるバニラや,生薬のサレップなどがある。
執筆者:井上 健
日本の園芸界では,ラン科植物を東洋ラン,洋ラン,和ランなどに分けて取り扱っているが,これは植物学上での分類ではない。
日本や中国に原産し,古くから栽培されていたカンランやシュンランは東洋ランと呼ばれる。それに対して洋ランはおもに明治以後,欧米を通じて日本に導入された花の観賞価値の高いラン科植物を指し,それらの中にはフィリピン,タイなどの東洋原産のラン科植物も含まれる。したがって洋ランとは原種の地理的分布を指したものではない。また,多くの洋ランは,熱帯系で,自然状態では北回帰線から南回帰線の間に分布しているため,耐寒性は小さく,日本での栽培は越冬のための保護設備の必要な点も,東アジア暖温帯原産の東洋ランとの栽培上の相違点となっている。
観賞上の面で比較すると,東洋ランは鉢植えとして全草を眺めるのが中心だが,洋ランは鉢花のほか切花にも多く利用されている。また洋ランは品種改良が次々にすすめられ,つねに種間交配種あるいは属間交配種が生まれるのに対し,東洋ランは自然に生育している変異品種をそのまま楽しむことが多い。
洋ランの株がはじめてヨーロッパに渡ったのは1731年で,西インド諸島のプロビデンス島からといわれる。この株は,ブレティア・ベレクンダBletia verecunda R.Br.で,翌年開花し,ヨーロッパにおける洋ランの最初のものとなったとされている。その後78年に,鶴頂蘭(かくちようらん)Phajus grandifolius Lindl.(=P.tancarvilleae(Banks)Bl.)が東南アジアからイギリスに輸入され,さらに1818年,カトレア・ラビアタCattleya labiata Lindl.が,ブラジルで発見される,など次々と洋ランが見つかりはじめた。これらはおもにラン株をとる採集家orchid hunterによってイギリスへ送りこまれたが,この採集行は積極的に行われた。
洋ランの原産地域はおよそ三つに分けられる。(1)熱帯アジア地域 インドからオーストラリアにわたる広い地域で,中心はフィリピン,タイ,インドネシアなどの東南アジアの熱帯降雨林の地帯である。ファレノプシス(コチョウラン),シンビジウム,デンドロビウム,パフィオペディルム,セロジネ,エリアEria,バンダ,アスコセントルム,カランセCalanthe,リンコスティリスRhynchostylis,レナンセラRenanthera,エリデス,ツニアThuniaなど,着生ランが多い。(2)熱帯アメリカ地域 メキシコ,フロリダより南で,ウルグアイ,パラグアイより北で,ブラジルが中心となる。カトレア,オンシジウム,レリア,ブラッサボラBrassavola,ブラッシアBrassia,ミルトニア,オドントグロッスム,リカステ,アングロアAnguloa,ソフロニティス,ロドリグネチアRodrignezia,ジゴペタルム,エピデンドルムなどを産し,着生ランがほとんどである。(3)南アフリカとマダガスカル島 属は少なく,分布も前2者に比べると少ない。ディサDisa,アングレクム,アンセリアAnsellia,エランギスAerangis,ユーロフィエリアEurophieliaなどがある。
洋ランの大きな特色である品種改良は,1852年,イギリスのドミニーJ.Dominyが,カランセ・フルカタCalanthe furcata Lindl.にカランセ・マッスカC.massuca Lindl.を交配したのが始めとされている。この交配種は56年に開花し,カランセ・ドミニーC.dominyiと命名された。また属間交配のほうでは,やはりドミニーがカトレア・モシアエCattleya mossiae Hook.にレリア・クリスパLaelia crispa Reichb.を交配し,63年に開花させ,これをレリオカトレア・イクソニエンシスLaeliocattleya Exoniensisと命名したのが最初のものとされている。
こうした品種改良は,当初イギリスだけで行われていたが,その後,ヨーロッパ各国にひろがった。現在,品種改良が盛んに行われている国として,アメリカ,イギリス,ドイツ,オランダ,タイ,シンガポール,フランス,オーストラリア,日本などがある。
明治以前,長崎のグラバー家の温室に,シンビジウム・トラシアヌムCymbidium tracyanumがあったといわれるが,はっきりしたことはわからない。現在のところ,明治10年(1877)ごろ,横浜にあったボーマー商会がイギリスからランや観葉植物を輸入していたので,ここから日本に渡来したとされている。また,1881年上野で開かれた,第2回内国博覧会のおりに温室が建ち,この中にシンビジウムやパフィオペディルムがあったといわれているし,89年,福羽逸人(いつんど)が東京麴町に温室をつくって,栽培をしていたともいわれている。いずれにしても,明治の初年から中ごろにかけて,イギリスやフランスなどから輸入されたものといえる。
こうした洋ランの栽培は,貴族を中心に趣味栽培として発展してきたが,一般への普及はあまり行われず,営利栽培もあまりなかった。第2次世界大戦後は,洋ランの栽培は営利生産を中心に発展した。これは切花としての需要が出てきたためで,1955年ころからこのきざしが見られ,70年ころには大量生産がはじまり,洋ラン普及時代になった。現在,鉢花として最も量産されているのはシンビジウムで,デンドロビウム,カトレアがこれについでいる。
執筆者:江尻 光一
東洋ランに含まれる種類は,日本はもとより,中国中南部や台湾の比較的温暖な地方に自生するシュンランやカンラン,またやや暑い地方に自生するキンリョウヘン(金稜辺),ホウサイラン(報才蘭),オラン(雄蘭),メラン(雌蘭),カンポウラン(寒鳳蘭)などとこれらのあいだで自然交配されたと思われる変種などをさす。すべて自然にはえているもので人工交配品種はない。
東洋ランの姿は洋ランに比べれば,地味である。またむしろ花をめでる洋ランに対し,葉,花および鉢植えにした全形を観賞する。そのため,文人趣味の極致をあらわすものとして,花や葉のもつ独特の姿態が,古くから文人や芸術家や一部の有識者に珍重されてきた。東洋ランを楽しみの伴侶として栽培するようになったのは,日本では鎌倉から室町時代にかけて,中国との往来がはげしくなったころからといわれ,ホウサイランやソシンラン(素心蘭)などが,僧侶や貿易商などによって少しずつ輸入され,気品のある花と香りが観賞されてきた。その後,江戸時代を機に,中国産のランに加えて,日本産のシュンランやカンラン,フウラン,セッコクなどの葉芸もの(縞,中斑,虎,中透,蛇皮など)に目が向けられ,それがエスカレートして,享保から天明にかけて大名から豪商,はては大衆の数寄者にいたるまで東洋ランを培養する気風が流行し,数々の出版物も出された。とくに文政年間に発行された水野忠敬の《草木錦葉集》(1826)は全般の植物にわたる柄物の大集成として著名であり,ランも各所にとりあげられている。明治になり,西欧の文化が流入するにおよんで,皇室をはじめ政治家や豪商などが洋ランの本格的な培養に取り組みはじめたころから,東洋ランも文人墨客を主として趣味者をひろげ,《剣蘭花鏡集》や《古今要覧稿》などに色刷りのランの絵がみられるようになった。明治の末期になると,シュンランの柄物が名品として世に発表され,カンランも優雅な品位を鉢植えにして産地を中心に愛好され,この時代に東洋ランの趣味が洗練された姿で定着したのである。
大正時代にはいると,華族や豪商などのいわゆる特権階級から大衆へとラン趣味がひろがる時期をむかえ,精神的植物観賞から脱して,美しい花をたのしむ風潮に変わり,花や柄の良し悪しに対する基本的な基準もととのい,初歩的な観賞方式が確立されたのである。しかし,これが引金になり,愛好者たちの競争心をあおる結果になってしまった。東京ではじめて全国的規模の大蘭展が開かれたのがこの時期であり,中国では清の呉恩元が収集した春蘭100余種を銅版で製図した《蘭蕙(らんけい)小史》(1933)が発行された。
昭和になると,花と柄に対する鑑識眼が一段と進歩し,その格付けにはっきりとした公式をうち出して,異常なまでの熱狂家が続出して,新種の発表のたびに興奮して売買するありさまは,まさに狂気の様相を呈し,一部の地方では禁止令さえ出た。しかし,この白熱した流行も,名花の発見に寄与した功績は大きく,静かな観賞態度を忘れて培養と売買にうきみをやつした姿に対する反省へのよい経験になった。
第2次大戦後は,大衆のラン趣味が根強くなり,柄物のケイラン(蕙蘭)から中国ラン,日本シュンラン,カンランへと新品種の発見は枚挙にいとまがなく,愛ラン家の増加がめざましい。
執筆者:黒崎 陽人
中国では古来その高雅な香りと姿,花色をめで,君子の花,国香として貴ぶ。前3世紀の屈原(くつげん)の《離騒(りそう)》にいう〈余すでに蘭の九畹(えん)を滋(う)え,また蕙(けい)の百(ほ)を樹(う)う〉をはじめ《楚辞》には蘭を詠うことが多い。また《春秋左氏伝》では鄭の文公の妾燕姑が,天人から蘭を与えられ,生まれる子はその香りのように人々から慕われると夢みた記事があり,すべて,国香,王者の香りのイメージを定着させるに役立った。春秋時代の楚の宮殿や,漢の宮中図書館,さらには御火台を蘭台と呼び,皇后宮を蘭殿というのも最上の香気の意味を含ませる。時代は下るが,王羲之の蘭亭も単にそこに蘭花が多かった以上の印象を与えるし,寺院āraṇyaに蘭若(らんにや)の字を当てるのも,蘭と杜若(カキツバタ)のもつイメージと無関係ではない。
中国の観賞用の蘭は,温州や婺(ぶ)州蘭谿など浙江省南部の山地,福建の海岸一帯,あるいは江蘇省宜興などに生育し,湖北や漢中にも産地がある。通例は一茎一花を蘭,一幹数花を蕙と呼び,春蘭,建蘭などの区分もある。本草書には沢蘭(都梁香)の名もみえるがラン科の植物であっても,観賞用の蘭とは異なる。蘭の栽培,愛玩がいつから始まるか正確にはわからぬが,南宋の紹定6年(1233)の趙時庚の《金漳蘭譜》と《蘭譜奥法》,淳祐7年(1247)の王貴学の《王氏蘭譜》などを見るかぎりでは,十数萼を中心に15萼にいたる多くの種類,灌水,根分け,培養土,その他現在に通じる栽培法などの詳しい記載がある。南宋では都市の市民,士大夫(したいふ)の間で相当広範に栽培されていたことがうかがえる。蘭愛好は明・清にいたるとさらに増大し,珍種の収集,品種改良が行われ,珍品が市場に出ると客どうしが殴り合いで奪ったといわれる。蘭の名品番付や栽培法を書いた本も多く,中国風に《易経》や《史記》の形に倣った《蘭易》《蘭史》などの書もある。南宋の遺臣鄭思肖(所南)が土をつけぬ蘭を描いて以後,水墨画の蘭は士大夫のたしなみの一つともなり,《芥子園(かいしえん)画伝》でも梅菊竹とならぶ四君子の一つとして蘭譜が作られている。
執筆者:梅原 郁
ランは英語でorchis,orchidと二通りに表されるが,前者は主として温帯地方に自生するハクサンチドリ属を指し,後者は熱帯産や温室栽培の美麗な種を指す。ともに語源はギリシア語orchis(〈睾丸(こうがん)〉の意)でその塊茎の形との類似による。またギリシア神話では,サテュロスの息子オルキスがバッコス祭に女官を犯して八つ裂きになり,ランに変わったという。そのため,この根から作られる生薬サレップsalepは催淫性があると信じられ,飲料にして娼婦が用いたり,鎮痛剤や食用ともされた。ネパールやボルネオでは聖所にランをまき,寺院にもこれを飾り,メキシコでは結婚式や葬式の献花として欠かせぬ花であったという。熱帯地方に広く分布するランの珍種を求めて多くの採集家が危険な旅行を企てたが,とくにランダンJ.Linden(1817-98)は19世紀半ばに中南米を旅し,1200に達する新種を発見した。しかし営利目的の収集家が殺到した地域では原産地からまったく姿を消した種類も続出した。熱帯産ランに対する熱狂はヨーロッパではチューリップの場合よりもはるかに長く続き,19世紀に最盛期を迎え,一生をランに捧げたライヘンバハH.G.Reichenbachは〈ラン狂の王〉と呼ばれ,死後は収集品がウィーン帝国博物館に残る。花言葉は〈美人〉〈華麗〉。
執筆者:荒俣 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
出典 (株)ジェリコ・コンサルティングDBM用語辞典について 情報
…フランス北部,ランの大聖堂。正称はノートル・ダムNotre‐Dame。…
※「ラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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