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アメリカの法律家、政治家。ニューヨーク州クリントンに生まれる。ハミルトン大学、ニューヨーク大学を卒業後、法律事務所を開き、弁護士として成功を収めた。その後、政界に転じ、第25代大統領マッキンリーの要請で、1899年から1904年まで軍事長官を務める。この間、軍制改革に着手、軍事大学校を創設した。1905年、今度は第26代大統領T・ルーズベルトに要請されて国務長官に就任、1909年まで務めた。国務長官時代、彼は国際協力、世界平和に心を砕き、中南米諸国との友好関係を築き、1908年には日本との間に高平‐ルート協定を締結し、中国の門戸開放、日本人移民の保護など、日米間の緊張緩和に努めた。1909年から1915年まで上院議員となった。また、1910年にハーグの常設国際仲裁裁判所の判事についている。このような国家間の紛争の調停に活躍したことが評価され、1912年のノーベル平和賞が授与された。その後、1921年のワシントン海軍軍縮会議では全権委員を務めた。そのほか、カーネギー国際平和財団の初代理事長に選ばれている。
[編集部]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの陸軍長官,国務長官。ニューヨークで弁護士開業後,陸軍長官(1899-1904)として陸軍の近代化に貢献。1905年セオドア・ローズベルト政権下の国務長官(1905-09)に任命され,中国における門戸開放と太平洋における現状維持を確認した〈高平=ルート協定〉(1908)を日本との間に締結した。09-15年ニューヨーク州選出上院議員となり,10年ハーグ国際仲裁裁判所判事にも就任。第1次世界大戦後はウィルソン大統領の国際連盟構想を支持し,またワシントン海軍軍縮会議(1921-22)にアメリカ代表の一員として参加するなど国際協調の保持に努めた。12年ノーベル平和賞を受賞。
執筆者:藤本 博
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