一色村(読み)いしきむら

日本歴史地名大系 「一色村」の解説

一色村
いしきむら

[現在地名]一色町一色

矢作古やはぎふる川最下流の三角州上に位置し、赤羽根あかばねおよび味浜あじはまに続く微高地の海辺の村。村の中央を市子いちご川が流れる。一色の名は一色田が地名化したと思われ、足利氏の一族である足利公深は、一色に居住し一色氏を名乗った。「寛政重修諸家譜」に「清和源氏 義家流足利支流 左京大夫 入道足大夫流師 宮内卿律師一色阿闍梨 足利宮内少輔泰氏七男 母桜井判官代某女」とあり、初め三河国幡豆郡吉良きら庄に住し、これより一色氏を称し、のち下総国葛飾郡田宮庄幸手に城を築いた。一色氏はのち室町幕府の四職の一人となる。乾地かんち・下乾地の小字名が残っているが、弘安年間(一二七八―八八)一色氏が乾地に住み吉良庄の地頭職であったこと、安休あんきゆう寺の創立が南北朝時代の延文二年(一三五七)と伝えるなど断片的なものしか伝えられていない。

南北に細長く、住民は初め乾地・下乾地に住み、南の上屋敷かみやしき・中屋敷・下屋敷へ開拓を進めたと思われ、崇用そうよう寺が弘治元年(一五五五)乾地から中屋敷へ移転し、源北げんほく寺が享保八年(一七二三)上屋敷から下屋敷へ移転している事実がこれを物語る。

一色村
いしきむら

[現在地名]小山町一色

大胡田おおごだ村の西に位置し、村の北辺を佐野さの川が、南辺を立沢たつざわ川が東流する。緩やかな丘陵地帯を占め、村域は東西に細長く、村中央を湧水を水源にする只水ただみずの小川が東流している。佐野川とその支流海苔のり川に挟まれた字島土しまどは中世の城館跡といわれる。天正八年(一五八〇)五月七日、甲斐の武田勝頼は室伏内膳ら六名が敵地へ欠落した後の「名田・屋敷等」の管理や年貢の納入を竹之下たけのしたの鈴木若狭守ら三名に命じている(「武田家朱印状」鈴木文書)。室伏系図(室伏家文書)などによると、内膳らは欠落以前当地に住居していたことが知られ、朱印状にみえる名田・屋敷も当地にあったと考えられる。

寛永一〇年(一六三三)相模小田原藩領、元禄一二年(一六九九)旗本大久保領(のちの相模荻野山中藩領)となり、宝永五年(一七〇八)幕府領に転じる。

一色村
いつしきむら

[現在地名]美浜町野間のま

伊勢湾に面し一色三郷といわれる本郷ほんごうなか新田・支邑若松わかまつからなり、本郷はわずか東西三〇間ほどの小村で、天保の村絵図によると、柿並かきなみ村の西にあり、本郷・とり新田・中新田は一集落をなす。東にたつ新田とさん一場いちば一色村控見取畑の飛地がある。

寛文年間(一六六一―七三)には堤防があり、安永年間(一七七二―八一)に工事が行われたが、その後も高波の被害を受けた。細目ほそめ村境の石猿尾いしさろう(防波堤)も四〇間あったものが今は二〇間余になったという(徇行記)。「寛文覚書」によれば、概高三三石余、田地三反五畝余・畑地一町五反歩、新田三石余、家数一四七、人口八二二。

一色村
いつしきむら

[現在地名]焼津市一色

田尻たじり村の西に位置し、北は木屋きや川を挟んで道原どうばら村、南は栃山とちやま川を境に惣右衛門そうえもん村。惣右衛門村の南東の駿河湾沿いに飛地がある。当村の浜にある「よりこ明神」とよばれる小祠が駿河・遠江の国境とされ(駿河記)、浜沿いの飛地の南は遠江国榛原はいばら下小杉しもこすぎ(現大井川町)。観応二年(一三五一)九月八日の足利義詮御教書(天龍寺文書)に「田尻郷南村河原一色」とみえ、この河原一色は当地付近に比定される。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高七九九石余、田中藩領。

一色村
いつしきむら

[現在地名]浅羽町浅羽一色あさばいつしき

八幡やわた村の南に位置する。慶長九年(一六〇四)の一色村検地帳(浅羽一色自治会文書など)によれば上田一〇町余・中田五町余・下田一町六反余、上畑四町余・中畑一町八反余・下畑一町六反余。正保郷帳では横須賀藩領。田方一七一石余・畑方五九石余、中興(中光)寺領一石五斗。元禄一一年(一六九八)旗本菅谷領となり幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳など)旧高旧領取調帳には浅羽一色村とある。

一色村
いつしきむら

[現在地名]二宮町一色・百合が丘ゆりがおか二―三丁目

北東に七国ななくに(一八二・八メートル)があり、中央をくち(現葛川)、東を字すぎいりより湧出する打越うちこし川が並行して南へ流れる。東は西窪にしのくぼ(現大磯町)、南は中里なかざと村、北・西は足柄上あしがらかみ井口いのくち(現中井町)に接する。大山道が南より西北へ通る。丘陵地帯の村で、集落は井ノ口川両岸の山の斜面に点在する。正保国絵図に「一色」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛永一〇年(一六三三)幕府直轄領と旗本田沢・成瀬・鎌田領の四給、享保二年(一七一七)幕府直轄領と旗本田沢・成瀬・大久保・深谷領の五給。大磯宿の大助郷を勤め、元禄七年(一六九四)の助郷高七四〇石(「大磯宿助郷村高覚」県史九)

一色村
いつしきむら

[現在地名]袋井市宇刈うがり

周知すち郡に所属。宇刈丘陵の谷間に位置し、南はしも村。宇刈川上流域は中世宇刈郷のうち。江戸時代以降も上流より大日だいにちなか三沢みさわ・一色・下・市場いちばの七村を宇刈七ヵ村と称し、また当村より上流の高平たかひら山東方の五村を大日谷五ヵ村ともいう(遠江国風土記伝)。村名は若宮八幡の神領「一織」に由来するという(掛川誌稿)。永禄八年(一五六五)一一月二八日の今川氏真判物(西楽寺文書)によれば、村松道化入道後家妙高尼から宇刈郷内西楽さいらく寺に郷内「一色村中道之上下」二段の地が寄進されていた。

一色村
いつしきむら

[現在地名]葉山町一色

西を相模湾に面する磯付きの村で、村内で浦賀うらが道・三崎みさき道が分岐する。東は浦賀道のたきさか上山口かみやまぐち村に続き、南は下山口しもやまぐち村、北はさんおか(大峰山)を隔てて堀内ほりのうち村。文化一三年(一八一六)堀内村から海岸を通っていた三崎道が崩壊したため、東の山中を通る道に付替えられたという(風土記稿)。「吾妻鏡」養和元年(一一八一)六月一九日条に「武衛為納涼逍遥、渡御三浦、(中略)上総権介広常者、依兼日仰、参会于佐賀岡浜」とあり、「佐賀岡」は当地の小字三ヶ岡に比定される。

一色村
いしきむら

[現在地名]藤岡町北一色きたいしき

現町域西端に位置する。集落は下・北・洞の三つの島からなる。村域には山神池・赤坂池・寺沢池・日焼池・寺池・蓮池の六つの溜池がある。縄文時代の山洞やまぼら遺跡・加美屋かみや遺跡がある。字川原かわはら向谷下むかいやげには宝篋印塔が各一基ずつ残る。北一色古窯跡群のある所は藤四とうしとよばれ、行基焼の創始者である藤四郎に由来するとみられる。

寛永一二年(一六三五)時には足助あすけ(現東加茂郡足助町)の成瀬氏上知領、元禄一〇年(一六九七)から一四年まで旗本沼間清芳領、正徳元年(一七一一)には吉田藩領、天保三年(一八三二)から幕府領、同一〇年再び吉田藩領となり、以後明治まで続く。

一色村
いつしきむら

[現在地名]久居市一色町

榊原さかきばら川の左岸にあって、なか村の対岸にあたる。村の東は長野ながの川をもって境とするので、榊原・長野両河川に挟まれた形となっており、集落は本里ほんざとのほか東方長野川河岸に上垣内かみがいとがある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「一志郡七栗之内一色村」と記され、七栗ななくり郷のなかの一村として室町時代木造氏の支配下にあったと伝えられ、慶長六年(一六〇一)庄田しようだ村小浜弥十郎なる者の領地となり、元和五年(一六一九)小浜氏が和歌山藩に仕官したため、当村も同藩に編入されたという(久居市史)

一色村
いつしきむら

[現在地名]津市一色町

安濃あのう川の中流、穴倉あなくら川との合流点の東岸の低平地に位置し、安濃川沿い北西に跡部あとべ村、東南に北河路きたこうじ村がある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「一色之郷」とある。この村名は荘園制の用語「一色田」に由来するとも、砂礫質の地をイシキとよんだのに基づくともいわれる。慶長一三年(一六〇八)以後は津藩領。それ以前から納所のうそ村の神宮じんぐう寺領のうち、高一六・六石を供進している(勢陽雑記)。慶安郷帳(明大刑博蔵)の高四四六・八一石、慶安元年(一六四八)の平高は五一二・〇一石で、寄人足五八人が課せられていた(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。山林を有しない一色村は、片田かただ郷の草山に入会をし、山年貢を支払っていたが、遠距離のため十分利用できないので、天和二年(一六八二)山組から脱退した(「片田立会山式法書」田中区有文書)

一色村
いしきむら

[現在地名]長泉町南一色みなみいしき

愛鷹あしたか山の山裾に位置し、村の東辺と南辺を黄瀬きせ川が流れる。同川の対岸東方は水窪みずくぼ(現裾野市)、同じく対岸南方は納米里なめり村。寛文一二年(一六七二)の検地帳(長泉町史)や国立史料館本元禄郷帳、また残存する年貢割付状(長泉町史)などによると寛文一二年・元禄八年(一六九五)は幕府領、その後旗本坂部広慶領となり、享保六年(一七二一)から安永六年(一七七七)まで旗本稲葉領であった。

一色村
いつしきむら

[現在地名]福田町一色

北は南田みなみだ村、西は浜部はまべ(現磐田市)鎌田かまだ御厨の一色田(年貢のみを国衙に納め、雑役は国衙から免除されて庄園領主の取分となる田)が地名化したと思われる。のち二宮にのみや於保おほ郷の一部となった。康和四年(一一〇二)一一月日の内宮禰宜等注進状案写(光明寺古文書)によれば、鎌田御厨の田が旱損にあうため、応徳年中(一〇八四―八七)に在国司に申請して堰溝(用水路)を掘通すことを認められた。しかし公領に住む田堵の賛成を得られなかったため、御厨の住人のみで二年に及び数十町余の堰溝を掘ったのち、一色田として開発したいと国司および朝廷に訴え認められた。

一色村
いつしきむら

[現在地名]浜松市中野町なかのまち

中野町村の北、天竜川右岸の堤防沿いに位置。豊田郡に属する。東海道の天竜川の渡船が中野町村と立野たての長森ながもり(現豊田町)の間から、万治三年(一六六〇)頃に北方の富田とみた村と池田いけだ(現豊田町)の間に移ったため、東海道が通ることとなった。松平忠頼領郷村帳では高七九石余、田二町二反余・畑八町四反余、うち川成二二石。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえる。

一色村
いしきむら

[現在地名]額田町一色

村域を東西に貫く大沼おおぬま道沿いに集落が立地。東は保久ほつきゆう村、西はやなぎ(現岡崎市)、南は小丸こまる(現岡崎市)伊賀谷いがや村、北は北須山きたすやま(現岡崎市)外山そとやま村と各々山で接する。中世、下山しもやま庄に属したという。享和三年(一八〇三)浄宮寺御用郡村仮名付帳(上宮寺蔵文書)に「額田郡之内下山庄一色村 明円寺」とある。

天正一八年(一五九〇)に岡崎城主田中吉政領、慶長六年(一六〇一)に岡崎藩領。

一色村
いつしきむら

[現在地名]下部町一色

常葉ときわ市之瀬いちのせ両村の西、醍醐だいご山の北斜面と勝坂かつさか(かんざか)山地の南斜面および勝坂山地より流れ富士川に注ぐ一色川の沖積地に立地する。慶長古高帳に一色とみえ高九二石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高一七七石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数九一・人数三七九、馬八。醍醐山に御林山一ヵ所がある(甲斐国志)鳩打はとうち峠を越えて常葉村へ出て東河内ひがしかわうち路に、また中坂なかざか峠を越えて上田原かみたんばら村経由で市川いちかわ(現市川大門町)岩間いわま(現六郷町)方面へ至る道に連なり、西は宮木みやき(現中富町)を経て富士川を渡船で飯富いいとみ(現同上)へ渡り、駿州往還に結ぶ道が通る。

一色村
いつしきむら

[現在地名]鳳来町七郷一色ななさといつしき

北は池場いけば村・川合かわい村・名号みようごう村、東から南にかけて、相川あいかわ村・川宇連かうれ村・寺野てらの(現静岡県)、西は巣山すやま村と接する。中央構造線が通っている複雑な山地に、六田沢ろくたざわ六本松ろつぽんまつ浅川あさかわ上松うえまつ黒沢くろさわ大島おおしまの集落がある。

村内の黒沢田楽鳳来寺田楽田峯だみね田楽(現北設楽郡設楽町)とともに三河三田楽といわれる。黒沢七戸に、六田沢一戸が加わり、毎年一月六日に行われてきた。一時中断したが昭和二八年(一九五三)復活。田楽帳は文化一三年(一八一六)のものが最も古く、明治四四年(一九一一)のものまで六冊、宗家の荻野仙司氏宅に所蔵されている。

一色村
いつしきむら

[現在地名]名東区猪高いたか一社いつしや高社たかやしろ亀の井かめのい

高針たかばり村の北にあたり、西は東山ひがしやま丘陵から続く高地で、東をまえ川が流れる。寛文一一年(一六七一)の家数二一、人数一二一(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高二九〇石余のうち二六九石余が藩士五人の給知。田は一五町二反一畝余、畑は二町一反七畝余。風越かざこし山・大坂おおさか山・よし迫間はざま山などがあり、「寛文覚書」は松山一八町歩を記録している。享保一九年(一七三四)当村から鉱泉が湧出、湯場を取立てた(一色鉱泉記)

一色村
いしきむら

[現在地名]加古川市平岡町一色ひらおかちよういしき平岡町一色西ひらおかちよういしきにし平岡町一色東ひらおかちよういしきひがし

坂井さかい村の東に位置する。イッシキともよぶ。永正一二年(一五一五)八月日と天文三年(一五三四)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)に載る天満宮猿楽雑事帳によると、安養あんよう(現曹洞宗)は二反分(能米八合・白米四合)の負担をしている。同寺は慶長六年(一六〇一)寺領三石を与えられた(「若原右京亮宛行状」宝塔寺文書)

一色村
いつしきむら

[現在地名]大垣市南一色町みなみいつしきちよう宝和町ほうわちよう

杭瀬くいせ川左岸、大垣輪中の西部に位置し、南は木戸きど村。古くは若森わかもり郷に属したという(新撰美濃志)。一色の村名が各地にあることから、俗に木戸一色とも称した。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高四〇〇石余。正保郷帳では田高三八二石余・畑高一〇〇石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では一色村四五七石余・一色長九郎分八一石余。正保元年(一六四四)の家数三一、弘化三年(一八四六)の家数三五(新修大垣市史)。明治五年(一八七二)村明細帳によれば、高四〇二石余、田一八町一反余・畑七町五反余、新田高一石余は田一反余・畑二七歩、家数三六・人数一七五、用水は菅野すがの川・杭瀬川より取水。

一色村
いつしきむら

[現在地名]荘川村一色

しよう川の支流一色川流域に開けた村。東は寺河戸てらこうど村、南はわしヶ岳を境に美濃国郡上ぐじよう郡、西は庄川を挟んで惣則そうのり村。ツガ峠は白川しらかわ郷と郡上郡を結ぶ重要な交通路であった。文明年中(一四六九―八七)一色左京大夫義直の一族一色式部義当が流浪して大野郡なだ(現高山市)に隠棲、のち当地に住みついたのが始まりという。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高九石余、田七反余・畑二町七反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割八分三厘、家数一三、うち百姓一〇・門屋三。一色の奥にまき山田さんでん赤崩あかくずれの三集落があったが、天正一三年(一五八五)の白山大爆発の際の大地震で山崩れが起こり、埋没したと伝える。

一色村
いつしきむら

[現在地名]神戸町北一色きたいしき

末守すえもり村の北に位置し、安八郡の二つの一色の地のうち中世の平野ひらの庄に属したものを平野一色とよんだ(新撰美濃志)。年月日未詳の龍徳寺々領目録控(龍徳寺文書)に「五拾貫文 平野ノ一色」とみえる。慶長郷帳では「一しき村」とみえ、村高は一九一石余と九六二石余に分けて記されるが、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では九六二石余。正保郷帳では田高七五三石余・畑高九七石余。明治一四年(一八八一)の村明細帳によると村高八五〇石余(田七五三石余・畑九七石余)、家数一〇〇・人数四三三、馬三六、用水は菅生すごう川・久瀬くぜ(杭瀬川)から取水し、用水圦樋六・留樋一・悪水落圦三などがあった。

一色村
いつしきむら

[現在地名]富士市一色

今泉いまいずみ村の北、愛鷹あしたか山の南西麓の丘陵に位置する。天文一八年(一五四九)一二月一三日付今川義元判物(浅川井出文書)によれば、義元は井出善三郎に「一色」ほかを安堵している。永禄四年(一五六一)閏三月一〇日今川氏真も、井出惣左衛門尉盛重の娘伊勢千代と結婚し、もし離別した場合には伊勢千代のものとするという条件付きで善三郎の息千熊に一色ほかの所領を安堵している(「今川氏真判物」同文書)

一色村
いつしきむら

[現在地名]西伊豆町一色いしき

なか村の北東、仁科にしな川中流域に位置する。寛文九年(一六六九)に仁科郷より分村した(掛川誌稿)。延享四年(一七四七)の名寄帳(伊豆南西海岸)には一色村・堀坂ほりさか村・岩谷いわや(現岩谷戸)とみえ、これらは現在通称名として残る。はじめ幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本岩瀬領となり幕末に至る(韮山町史)。元禄郷帳では仁科と肩書されて村名がみえ高二四九石余。

一色村
いしきむら

[現在地名]南伊豆町一色

ちよう村の西に位置する。北条氏所領役帳には本光院殿(北条為昌)衆の山本太郎左衛門の所領役高として七〇貫文「一色」とみえる。当地にあった三島明神の大永四年(一五二四)上梁文にも「地頭山本□□入道」とみえ(増訂豆州志稿)、当地と山本氏の関係がうかがえる。領主は延享四年(一七四七)まで入間いるま村と同じだが、文化八年(一八一一)旗本河原林(瓦林)領となり幕末に至る(韮山町史)。寛文一二年(一六七二)の高三九九石余(「伊豆国中高之寄」一橋大学文書)

一色村
いつしきむら

[現在地名]棚倉町一色

福井ふくい村・玉野たまの村の北、やしろ川南岸の平坦地に立地。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。正保郷帳では高一三〇石余、うち田九五石余・畑三五石余。元禄郷帳では高一四六石余、枝郷太夫内たゆうち村の高四五石。宝永二年(一七〇五)の村指出帳(棚倉町史)によれば家数三一(本家二六・栖在家五)、馬一四。用水は玉野堰を玉野村など四ヵ村と共同で利用した。天保七年(一八三六)の村指出帳(一色区有文書)では家数二七・人数一三八、馬二四。

一色村
いしきむら

[現在地名]鼎町一色

現鼎町の南西部、まつ川の段丘上にある平坦な水田地帯。やま村の須志角すしかど地籍で松川より取り入れた伊賀良井いがらいから、更に分水した名子熊井なごくまいが当村の水田を灌漑して、東の名子熊村に至る。名子熊井の開削に関する確かな文献史料はないが、室町時代中期に、伊賀良庄の地頭であった小笠原氏によって開削が行われ、それに伴って開田も行われたものと推測される。従って「一色」の地名は小笠原氏の一職支配、すなわち完全なる所領の意から生じたとする説(伊賀良村史)がある。

天正七年(一五七九)の上諏訪造宮帳の「山洞南方之郷」に含まれていたものと推定されるが、天正一九年の信州伊奈青表紙之縄帳(佐々木忠綱氏蔵)に、「一 百五拾九石八斗九升六合 一色」とあるのが文献上の初見である。

一色村
いしきむら

[現在地名]落合町一色

せき村の南にあり、南は栗原くりはら村。備中川および同川支流関川の流域に耕地が広がり、関川沿いに月田つきだ(現勝山町)へ通じる里道が通る。慶長一九年(一六一四)の森忠政判物(福富文書)によれば、当村のうち七〇石などが福留弥兵に与えられている。正保郷帳では田高二七四石余・畑高二〇三石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は中、改出高一一〇石余・開高三二石余。「作陽誌」では家数一〇二・人数四五八。津山藩森家断絶後の領主の変遷は日名ひな村に同じ。

八幡宮がある。「作陽誌」によれば後鳥羽上皇の皇子が当地で没したため、家臣の若田将監・林兵庫が皇子の霊を祀ったのが始まりといい、江戸時代は当村の氏神で、妙法みようほう寺が社僧を務めた。

一色村
いつしきむら

[現在地名]米原町一色

醒井さめがい村の北東に続く中山道沿いの村。もとは天野あまの川対岸の本郷ほんごう(現山東町)の出郷であったという(江左三郡録)。寛永石高帳に村名がみえ、高二〇七石余で旗本近藤領。元禄一一年(一六九八)宮川藩領となり、以後幕末まで同藩領。村内の中山道に一里塚と高札場があった(分間延絵図)。村は田より畑が多く、用水は天野川より引く。農業のほか男は山稼、女は苧かせなどに従事していた(宿村大概帳)。天和三年(一六八三)初めて醒井宿の定助郷に指定され、助郷高二〇七石余。

一色村
いしきむら

[現在地名]三好町西一色にしいしき

現町域の南西部に位置し、さかい川の東岸沿いにあり鎌倉街道が通る。溜池がなく、明治一八年(一八八五)の「愛知県西加茂郡各村沿革調」によれば「溜池ナクシテ境川ノ水ヲ引キ稲ヲ作ル所ニシテ少シク旱リセハ田畑共ニ旱損多シ」という。近世初めは岡崎藩領、宝暦一三年(一七六三)に幕府領、文政六年(一八二三)沼津藩領、天保二年(一八三一)西尾藩領となり明治維新に至る。

一色村
いつしきむら

[現在地名]旭町一色

矢作川の右岸にあり、支流阿妻あづま川に注ぐ一色川に沿う。東は浅谷あざかい村、南から西にかけて野原のはら村、北は現岐阜県恵那えな明智あけち町に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。慶長八年(一六〇三)明知あけち(現明智町)に陣屋を置く旗本遠山利景の知行地となり明治に至る。天明四年(一七八四)の銘細書上帳(伊藤良平家文書)によると、高二〇石、反別二町六反歩余、うち上田三畝歩余・中田九反歩余・下田八反歩余、上畑一反歩余・下畑六反歩余。

一色村
いつしきむら

[現在地名]鈴鹿市林崎はやざき

須賀すか村の東方、西林崎にしはやざき村に接してその西北部にある水口みなくち付近の集落。河曲郡平野の中央部で、周辺は条里制水田に囲まれ、北方には二の坪の地名もある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「九百弐拾八石弐斗壱升 西林崎之郷」とあり、西林崎村だけの村高は後世六二〇石余であるから、うち三〇〇石余の一色村の高を含んでいる。

一色村
いしきむら

[現在地名]羽島市上中町一色かみなかちよういしき

長間ながま村東部の南に位置する桑原くわばら輪中内の村で、長間一色村ともいう。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)に一色が二筆みえるが、一筆は当地のことであろう。文化七年(一八一〇)の村明細帳に、慶安二年(一六四九)平岡石見守の検地を受けたとあり、このとき長間村から分離独立したと推定される。元禄郷帳に村名がみえ、高八五石余、幕府領。

一色村
いつしきむら

[現在地名]伊勢市一色町

勢田せた川河口東岸にあり、西岸の神社かみやしろ村と向い合う。「五鈴遺響」に「食塩ヲ焼テ産業トス」と記されている。伊勢神宮領で寛永二〇年(一六四三)の内外宮領図(神宮文庫蔵)の裏書に「浜一郷一色村 一三四戸 四七九人」とある。伊勢猿楽三座の一、和屋(谷)家が居住し、能楽と能面・能衣裳を伝えている。

一色村
いつしきむら

[現在地名]一宮市千秋ちあき一色いしき

穂積塚本ほづみつかもと村の西にあり、村の南を浅井あざい街道が通り、人家は村の中央に集中する(天保村絵図)。概高一〇七石余はすべて竹腰山城守の知行地。田一町四畝余・畑一一町九反三畝余、新田一石余。

一色村
いつしきむら

[現在地名]蒲郡市一色町

平地ひらち村・戸金とがね村の東隣にあたる。享保元年(一七一六)から旗本桑島家の知行所となって明治に至る。三河木綿の主産地は矢作川流域であったが、当村にも寛文七年(一六六七)の木綿田三割引帳(一色区有)と題する記録があって、当年の作付面積一町二反余、分米合計一三石余であったことが知られる。

一色村
いしきむら

[現在地名]一宮市一色町

北は新神戸しんかんべ村・宮後みやうしろ村、ふる川を越して東南は一之宮いちのみや村である。概高二三〇石余のほか、新田七石余で、田方が三町四反余、畑方が一四町九反余の畑作の村である。「寛文覚書」に記す家数四一、人数二二二である。

一色村
いつしきむら

[現在地名]富津市一色

きぬ村の北東に位置する。天王面てんのうめん諏訪面すわめん貞観面ていかんめんなどの地名がある。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高五八石で、幕末まで変わらない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報