天竜川が形成した平野の西から浜名湖東岸に広がる洪積台地。浜松市を中心に浜北市、
建武政権崩壊後、遠江は後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊氏の後援を受けたことにより、南北両勢力の抗争地となり、建武四年(一三三七)七月四日に三方原で合戦があった。これは宗良親王の拠る
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静岡県西部にある洪積台地。〈みかたがはら〉ともいう。浜松市の南部,東西約10km,南北約15kmの規模をもつ。標高は北部で約120m,南部の浜松市街地付近は約30mと低下する。北部は都田(みやこだ)川低地,東部は天竜川下流平野,南部は遠州灘海岸平野,西部は浜名湖に面する。台地面は古天竜川の堆積した砂礫層が覆い,天竜川をはさんで東方の磐田原台地と同時代の形成と考えられる。平たん面が広く残るが,周辺は浸食谷の開析がすすみ丘陵状の地形となる。南側には浸食谷が砂堤によって閉塞された佐鳴(さなる)湖や台地末端の蜆(しじみ)塚貝塚などがあり,海食崖の地形といえる。東側の浜北や富岡の段丘は隆起運動の跡を示す。
乏水性の地形のため台地は曳馬野(ひくまの)と呼ばれた入会採草地であったが,1869年(明治2)士族授産を目的とする開墾で茶園の造成が始まり,気賀林(きがりん)(1810-83)によって〈百里園〉が開かれた。また昭和初期には飛行第7連隊が置かれ爆撃演習場となった。軍用地の大部分は第2次大戦後開拓地となり,樹園地が拡大したが,一部は航空自衛隊浜松基地に使用されている。天竜川中流の秋葉ダムを水源とする三方原用水は国営事業により1970年に完成し,台地面への農業用灌漑のほか生活用水,工業用水として供給されている。1572年(元亀3)の武田信玄と徳川家康の三方原の戦は有名。また東海道の脇往還である姫街道が浜松から気賀へと台地上を通過している。
執筆者:北川 光雄
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静岡県西部、浜松市の中心市街地の北西方に広がる洪積台地。古くは曳馬野(ひくまの)とよばれた。東は天竜川の沖積地、北は都田(みやこだ)川の河谷、西は浜名湖に接し、南は直線的な崖(がけ)で海岸低地に面する。かつての天竜川の扇状地性平野が隆起運動によって形成された台地で、砂礫(されき)層が覆う。北部で110メートル、南端で30メートルの標高をもち、平坦(へいたん)面は広く、周辺は丘陵性地形である。台地面はやせた土地で江戸時代入会(いりあい)採草地であったが、1869年(明治2)徳川家旧臣の士族授産による茶園の開墾が始まり、百里園はその中心であった。昭和初期、軍の演習場になったが、第二次世界大戦後は開拓が行われ、畑地、樹園地が開かれた。天竜川に水源をもつ三方原用水の導水は耕地化を進めたが、都市的土地利用も拡大した。航空自衛隊浜松基地もある。1572年(元亀3)徳川家康と武田信玄(しんげん)の三方ヶ原の戦いは名高く、古戦場犀ヶ崖(さいががけ)が残る。また千人塚古墳をはじめ三方原古墳群が台地東縁に分布する。
[北川光雄]
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…軍用地の大部分は第2次大戦後開拓地となり,樹園地が拡大したが,一部は航空自衛隊浜松基地に使用されている。天竜川中流の秋葉ダムを水源とする三方原用水は国営事業により1970年に完成し,台地面への農業用灌漑のほか生活用水,工業用水として供給されている。1572年(元亀3)の武田信玄と徳川家康の三方原の戦は有名。…
※「三方原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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