三方原(読み)ミカタハラ

デジタル大辞泉 「三方原」の意味・読み・例文・類語

みかた‐はら【三方原】

三方ヶ原みかたがはら

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精選版 日本国語大辞典 「三方原」の意味・読み・例文・類語

みかた‐が‐はら【三方原】

  1. ( 「みかたはら」とも ) 静岡県浜松市の北西部を占める洪積台地江戸時代は入会採草地であった。航空自衛隊浜松基地がある。見方原。箕形原。曳馬野(ひくまの)

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日本歴史地名大系 「三方原」の解説

三方原
みかたばら

天竜川が形成した平野の西から浜名湖東岸に広がる洪積台地。浜松市を中心に浜北市、細江ほそえ町・雄踏ゆうとう町に及び、南北約一五キロ・東西約一〇キロ。標高は北部で約一〇〇メートル、南部で約三〇メートル。箕形原・味方原・三片原などとも記される。古くは引馬ひくま野ともよばれ、周辺地域を含む広域地名であった。地名は和地わじ都田みやこだ祝田ほうだ(現細江町)三方の入会地だったことによるとも伝える。近世に三方原とよばれたのは台地上の一部に限定された区域であった。近現代には浜名郡三方原村や三方原用水のように、「三方原」と表記して「みかたばら」と読むが、元和九年(一六二三)の幕府の三方原草野裁許状(古人見町自治会文書)に「みかたか原」と記すのをはじめ、近世には「三方ケ原」ないし「味方ケ原」の表記が認められ、「みかたがはら」とよんだと考えられる。

〔中世〕

建武政権崩壊後、遠江は後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊氏の後援を受けたことにより、南北両勢力の抗争地となり、建武四年(一三三七)七月四日に三方原で合戦があった。これは宗良親王の拠る三岳みたけ(現引佐町)攻略の前哨戦であり、今川範国に参陣した遠江の三和光継は先駆けの軍功を上申し、範国の証判を受けている(三和光継軍忠状写「集古文書」所収三輪元成所蔵文書)。翌五日には山城国御家人の松井助宗も井伊一族を討ったとして軍功を上申、証判を受けており(「松井助宗軍忠状写」土佐国蠧簡集残篇所収松井利兵衛所蔵文書)、さらに七月一三日の城攻めの軍忠に対し内田致景が証判を受けている(「内田致景軍忠状写」内田文書)。戦国期の三方原合戦は有名であるが、南北朝期にも合戦があったことは当地が遠江における要衝だったことによる。文明一七年(一四八五)九月一四日、東下の途中の万里集九は「箕形原」で初めて富士山を眺め感激している(梅花無尽蔵)。元亀三年(一五七二)一〇月、武田信玄は遠江国攻略の軍を出し、天竜川沿いに南下、一一月末に二俣ふたまた(現天竜市)を攻略、徳川家康の拠る浜松城を避け、三方原から北西の祝田、井伊谷いいのや(現引佐町)を経て上洛する構えをみせた。

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改訂新版 世界大百科事典 「三方原」の意味・わかりやすい解説

三方原 (みかたはら)

静岡県西部にある洪積台地。〈みかたがはら〉ともいう。浜松市の南部,東西約10km,南北約15kmの規模をもつ。標高は北部で約120m,南部の浜松市街地付近は約30mと低下する。北部は都田(みやこだ)川低地,東部は天竜川下流平野,南部は遠州灘海岸平野,西部は浜名湖に面する。台地面は古天竜川の堆積した砂礫層が覆い,天竜川をはさんで東方の磐田原台地と同時代の形成と考えられる。平たん面が広く残るが,周辺は浸食谷の開析がすすみ丘陵状の地形となる。南側には浸食谷が砂堤によって閉塞された佐鳴(さなる)湖や台地末端の蜆(しじみ)塚貝塚などがあり,海食崖の地形といえる。東側の浜北や富岡の段丘は隆起運動の跡を示す。

 乏水性の地形のため台地は曳馬野(ひくまの)と呼ばれた入会採草地であったが,1869年(明治2)士族授産を目的とする開墾で茶園の造成が始まり,気賀林(きがりん)(1810-83)によって〈百里園〉が開かれた。また昭和初期には飛行第7連隊が置かれ爆撃演習場となった。軍用地の大部分は第2次大戦後開拓地となり,樹園地が拡大したが,一部は航空自衛隊浜松基地に使用されている。天竜川中流の秋葉ダムを水源とする三方原用水は国営事業により1970年に完成し,台地面への農業用灌漑のほか生活用水工業用水として供給されている。1572年(元亀3)の武田信玄と徳川家康の三方原の戦は有名。また東海道脇往還である姫街道が浜松から気賀へと台地上を通過している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三方原」の意味・わかりやすい解説

三方原
みかたはら

静岡県西部、浜松市の中心市街地の北西方に広がる洪積台地。古くは曳馬野(ひくまの)とよばれた。東は天竜川の沖積地、北は都田(みやこだ)川の河谷、西は浜名湖に接し、南は直線的な崖(がけ)で海岸低地に面する。かつての天竜川の扇状地性平野が隆起運動によって形成された台地で、砂礫(されき)層が覆う。北部で110メートル、南端で30メートルの標高をもち、平坦(へいたん)面は広く、周辺は丘陵性地形である。台地面はやせた土地で江戸時代入会(いりあい)採草地であったが、1869年(明治2)徳川家旧臣の士族授産による茶園の開墾が始まり、百里園はその中心であった。昭和初期、軍の演習場になったが、第二次世界大戦後は開拓が行われ、畑地、樹園地が開かれた。天竜川に水源をもつ三方原用水の導水は耕地化を進めたが、都市的土地利用も拡大した。航空自衛隊浜松基地もある。1572年(元亀3)徳川家康と武田信玄(しんげん)の三方ヶ原の戦いは名高く、古戦場犀ヶ崖(さいががけ)が残る。また千人塚古墳をはじめ三方原古墳群が台地東縁に分布する。

[北川光雄]

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百科事典マイペディア 「三方原」の意味・わかりやすい解説

三方原【みかたはら】

〈みかたがはら〉とも。静岡県南西部,浜松市街北西に広がる洪積台地。標高30〜90mで南西に緩傾斜。砂礫(されき)層とその上のローム層からなる。地味がやせ,地下水面が深いので開発はおくれたが,明治初年に士族が入植,茶園が開かれた。三方原用水が引かれ,茶・果樹栽培を行う。工業・宅地化が進む。
→関連項目金原明善静岡[県]浜松[市]

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世界大百科事典(旧版)内の三方原の言及

【三方原】より

…軍用地の大部分は第2次大戦後開拓地となり,樹園地が拡大したが,一部は航空自衛隊浜松基地に使用されている。天竜川中流の秋葉ダムを水源とする三方原用水は国営事業により1970年に完成し,台地面への農業用灌漑のほか生活用水,工業用水として供給されている。1572年(元亀3)の武田信玄と徳川家康の三方原の戦は有名。…

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