上遠野富之助(読み)カドノ トミノスケ

20世紀日本人名事典 「上遠野富之助」の解説

上遠野 富之助
カドノ トミノスケ

明治・大正期の実業家 名古屋商業会議所会頭;名古屋鉄道社長。



生年
安政6年10月19日(1859年)

没年
昭和3(1928)年5月26日

出生地
出羽国横手(秋田県)

学歴〔年〕
東京専門学校(現・早稲田大学)卒

経歴
「秋田日報」記者を経て、東京専門学校に入学。卒業後、「郵便報知新聞」政治記者となるが、名古屋の実業家・奥田正香に認められ、明治26年名古屋商業会議所に入り、書記長となる。以後奥田を補佐し、42年同副会頭、大正10年〜昭和2年会頭を務めた。この間、名古屋鉄道を設立し社長を務めた他、明治銀行、日本車輌製造、名古屋電力(東邦電力)、名古屋瓦斯(東邦瓦斯)などの会社設立に参画し役員を兼任。一方、明治38〜42年名古屋市会議長も務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「上遠野富之助」の解説

上遠野富之助

没年:昭和3.5.26(1928)
生年:安政6.10.19(1859.11.13)
明治大正期の実業家。出羽国(秋田県)生まれ。『秋田日報』の記者となり,のち上京して東京専門学校(早大)を卒業。『郵便報知新聞』の政治記者時代,奥田正香の知遇を得て明治26(1893)年名古屋におもむく。以後,奥田を補佐し,明治銀行,日本車輛製造,名古屋電力(東邦電力),名古屋瓦斯(東邦瓦斯)など同地の有力企業の設立に参画し,役員を兼任。奥田系資本グループの形成,発展において,奥田の補佐役的存在であった。42年より大正10(1921)年まで名古屋商業会議所の副会頭,続けて昭和2(1927)年まで会頭を務めた。<参考文献>杉浦英一『中京財界史』,林董一『名古屋商人史』,和田一夫・小早川洋一・塩見治人「明治40年時点の中京財界における重役兼任」(『南山経営研究』6巻3号)

(小早川洋一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上遠野富之助」の解説

上遠野富之助 かどの-とみのすけ

1859-1928 明治-大正時代の経営者。
安政6年10月19日生まれ。「郵便報知新聞」の記者となり,奥田正香(まさか)にみとめられて明治26年名古屋商業会議所にはいる。副会頭をへて大正10年会頭に就任。この間名古屋鉄道社長,明治銀行・日本車輛製造の重役を兼任した。昭和3年5月26日死去。70歳。出羽(でわ)横手(秋田県)出身。東京専門学校(現早大)卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「上遠野富之助」の解説

上遠野 富之助 (かどの とみのすけ)

生年月日:1859年10月19日
明治時代;大正時代の実業家。名古屋商業会議所会頭
1928年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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