下谷広小路(読み)したやひろこうじ

日本歴史地名大系 「下谷広小路」の解説

下谷広小路
したやひろこうじ

現上野一―四丁目付近の中央通を挟んだ地域をさす呼称。下谷広小路は寛永二年(一六二五)寛永寺の創建後まもなくできた町で、いわば門前町の一つといえるが、寛永寺門前町の呼称はみえない。上野広小路ともよばれた。ただし幕末までの正式な呼称は下谷広小路である。しかし寛文新板江戸絵図に「上野広カウシ」との注記があるのをみると、江戸時代前期から双方の呼称が並存していたことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の下谷広小路の言及

【広小路】より

…現在,広小路といえば上野広小路が有名である。ここは東叡山寛永寺黒門前に設けられた火除地であり,下谷(したや)広小路とも呼ばれていた。ただし上野広小路が現在のように繁華街の中心になるのは近代になってからであり,江戸時代には,後に上野駅構内になる山下と呼ばれた一帯が,むしろ広小路としてはにぎわっていた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」