日本大百科全書(ニッポニカ) 「中島重」の意味・わかりやすい解説
中島重
なかじまじゅう
(1888―1946)
政治学者、法学者。「しげる」とも読む。岡山県高梁(たかはし)市の柳井(やない)家に生まれ、のちに中島家の養子となった。1916年(大正5)東京帝国大学独法科を卒業、翌1917年同志社大学法学部に赴任。1929年(昭和4)総長海老名弾正(えびなだんじょう)の辞職に殉じて同志社を去り、関西(かんせい)学院大学教授となる。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21)1月、ふたたび同志社大学教授に迎えられるが、同年5月29日病死した。中島は、東大時代に吉野作造を政治学の師とし、海老名を信仰上の師として、そのキリスト教的自由主義思想を形成した。初期の労作『多元的国家論』(1922)は、第一次世界大戦後のイギリスを中心に展開された、H・J・ラスキやG・D・H・コールらの多元論的国家理論の体系的な紹介書で、大正デモクラシーの時代背景もあずかって、日本の自由主義的政治学の発展に寄与した。その後、昭和に入って、『発展する全体』(1939)や『国家原論』(1941)が発表され、持説の職能的国家論が一貫して展開されるが、同時にまた、そこでは、個人本位の自由主義を排して社会本位的民族主義を強調するなど、全体主義的な時代風潮のなかで「東亜共同体」論への傾斜がみられることも事実である。また、賀川豊彦(かがわとよひこ)に共鳴して「社会的基督(キリスト)教」の実践活動にも積極的に参加した。
[西田 毅 2018年3月19日]