久保町(読み)くぼちよう

日本歴史地名大系 「久保町」の解説

久保町
くぼちよう

[現在地名]尾道市久保一―三丁目・西久保にしくぼ町・長江ながえ一丁目

尾道町を構成する三町の一。町の東部を占め、東端は防地ぼうじ川で後地うしろじ村に接する。西端は叶屋かのうや小路・長江ながえ町・長江新ながえしん町の東側の町並を構成し、石見路(赤名越)が北に延びる。町名は、海岸線の窪んだ地形によると伝え、「窪町」とも書く。「芸藩通志」に町の長さ三町四八間余、「尾道志稿」に戸数一千一九五とある。

文政四年(一八二一)の尾道町絵図(尾道市立図書館蔵)によると、町の中央を東西に通る本町ほんまち(本通・山陽道)に沿って、東から大宮崎おおみやざき町・中宮崎なかみやざき町・石屋いしや町・中久保なかくぼ町が記されるが、「芸藩通志」はこのうち宮崎町は亀山かめやま八幡宮の崎にある地域、石屋町は石工が多く居住すると記す。

久保町
くぼまち

[現在地名]甲府市武田たけだ三丁目・朝日あさひ四―五丁目・天神町てんじんちよう

元穴山もとあなやま町の西に続き、手子てこ町との間に挟まれた東西の通り。上府中二六町の一町で町人地。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(県立図書館蔵)によれば北側・南側とも一〇九間半で、南側家並の裏(南)は三ノ堀である。手子町との境から北へ上る小路は武田氏時代の古城下の一条いちじよう小路で、六方ろつぽう通ともよばれたことから、当町は一時六方町と称された。これはおそらく新城下に組込まれた際に六方小路の旧跡を移したことによるのであろうと伝える(甲斐国志)

久保町
くぼまち

[現在地名]大多喜町久保

猿稲さるいね町の南、大多喜往還沿いの両側町。城下七町の一。慶安二年(一六四九)の大田喜根小屋地詰帳(小高家文書)に久保町とみえ、田畑屋敷反別五町八反余。元禄郷帳では高二一五石余。元禄一五年(一七〇二)の久保町地詰改帳(大久保家文書)では田一〇町二反余・畑一〇町六反余・屋敷二町八反余。享保期(一七一六―三六)の大多喜城下絵図(渡辺家蔵)によれば、大多喜往還沿いの久保町のほか、桜台さくらだい町を隔てて鉤形の南の張出路に久保町内はら町、桜台町西裏の張出路に久保町内白銀しろがね町があり、総軒数六六。城下商人町の中心地で、屋敷間口二〇間以上の豪商二軒、東裏に桜谷おうこく寺・福寿ふくじゆ院、西裏に青龍せいりゆう権現(現青龍日吉神社)がある。

久保町
くぼまち

[現在地名]武生市やなぎ

北陸街道柳町の西裏側町。寛永二年(一六二五)の浅井永記録に町名がみえ、家数三〇(南条郡誌)、安永三年(一七七四)の前田家文書では一六七軒に増加(武生市史)。鍛冶職が多く住んだ。

当町にあった慈心じしん(廃寺)は時宗清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)の末寺で、慶長三年(一五九八)の長束大蔵府中寺庵中注文(正願寺文書)に「壱段八畝廿歩」とみえる。浄土真宗本願寺派養徳ようとく寺は、慶長年中、東本願寺末の安養寺あんようじ村養徳寺の門徒が両派に分れて争い、一派が寛文元年(一六六一)西本願寺末に帰して府中に分立したもので、常楽じようらく(現京都市下京区)門流の正立しようりゆう(現鯖江市)から養子を迎えたため、常楽寺関係の宝物が伝来した。

久保町
くぼちよう

[現在地名]奈良市高畑たかばたけ

中清水なかしみず町の南に所在。東北が高く、西南は窪地。「大乗院雑事記」長禄四年(一四六〇)閏九月二六日条にみえる正長元年(一四二八)の「領内間別銭事」に「窪一間」「同辻子ノ里卅一間」とある。同書長禄元年一二月一三日条には竜花院りゆうげいん郷のうちにくぼ郷がみえ、同三年五月三日条には、小五月こさつき郷のうち松谷まつたに郷は郷民が減少して神輿役の執行が困難になったため、代りに窪郷をこの年から加えたと記す。

久保町
くぼちよう

[現在地名]福井市つくも一―二丁目

九十九つくも橋の南に続く北陸街道沿いの町で、東南に折れると石場下いしばしも町に続く。窪町とも書き、往古この辺りが窪地であったための名という。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「往還窪町 五拾七間、石場下町ヨリ橋詰迄、但道幅四間」と記す。天保三年(一八三二)の石場組家帳(上田家文書)によると家数二七。

当町の北から西に折れるとどううしろ町で、同町の名は、広大な境内を有した仙福せんぷく寺の堂の後ろにあたるためという。前記正徳の間数帳に「堂後町 四拾壱間、窪町ヨリ西源寺町迄、但道幅一間二尺」とある。

久保町
くぼちよう

[現在地名]三島市中央町ちゆうおうちよう

三島町のほぼ中央に位置し、東海道を挟む伝馬てんま町の西に延びる町。三島宿成立当初からの中心的な町。寛文四年(一六六四)の三島代官伊奈忠公掟書写(世古家文書)に町名がみえ、三島宿の伝馬役を最初に負担した。貞享五年(一六八八)の家数三九(家持三四・借屋五)、町の長さ一三三間(三島町外万覚帳)。慶応三年(一八六七)には高四三〇石余、家数八三(本家五四・地借七・店借二二)・人数四二九(「宗門人別取調書」三島市誌)

久保町
くぼちよう

[現在地名]水戸市大工だいく町三丁目

向井むかい町の西に続く町で、西は常葉ときわ村。この町の道筋は赤塚あかつか・笠間方面へ通じる結城街道(現国道五〇号)に続く。初めは新久保町と称し、「水府地名考」に「寛文の比より新久保町とも唱へしよし其頃より町の内に入りしか」とみえる。町の北部がやや低い土地で「此側を砂窪すなくぼなとゝ唱ふる所なれハ」(水府地名考)この町名となった。「水府地理温故録」では「窪町」とし、「新編常陸国誌」には「初窪町ニ作ル(中略)後今ノ字ニ改メタリ」とみえる。

久保町
くぼまち

[現在地名]豊岡市泉町いずみちよう

てら町の北に位置し、東は滋茂しも町と竹屋たけや町に接し、西は新屋敷あらやしき村。天正一〇年(一五八二)発足の豊岡町(城下)の発展により五町外の端町の一として新屋敷村域に食込んで成立。元禄一五年(一七〇二)の豊岡城下図(京極家蔵)ではまだ町屋が形成されていない。職人町と伝える。天明五年(一七八五)の家数六二・人数二四三、文政八年(一八二五)には家数五七・人数二二一(「公私之日記」鳥井家文書)

久保町
くぼちよう

[現在地名]和歌山市久保丁一―四丁目

北の小野おの町に並行する町人町。元禄一三年(一七〇〇)の和歌山城下町絵図では、東の西の丸川から西の紀ノ川までを一―三丁目に区分する。「続風土記」は一―四丁目に分け、三丁目に小名おみきざか、四丁目に小名城山しろやま・せどちをあげ、「此町を久保町といふは、公方家の住せしより其名起り、公方町なりといひ伝ふ」と記すが、明らかでない。「紀藩街官司秘鑑」にも「久保丁四丁目之内ヲ城山と唱」とある城山は、紀ノ川に臨む岸の高所をいい、「太平記大全」に細川頼之が拠ったとある「紀湊城」跡といわれ(続風土記)、「紀伊名所図会」には「天文年間、中国の探題大内義隆家臣陶尾張守晴賢入道全姜の出張の城跡なりといふ」とみえる。

久保町
くぼのちよう

[現在地名]西宮市本町ほんまち

鞍掛くらかけ町の東、山陽道に沿う町。西宮町の町方一五町の一(天保九年「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)。西宮町細見図(西宮市史)によると、越水こしみず村より西宮町を抜けて浜へ出る道が当町西端で山陽道と交差、交差点の北に高札場、南に西宮大神宮旅所を描く。ただし貞享元年(一六八四)の西宮町浜地図(同書)、山崎通分間延絵図ともに高札場は山陽道の南である。

久保町
くぼまち

[現在地名]関宿町関宿町 久保

さくら町の北東に位置する。武家町。外堀の東側にあたり、土塁を隔てて南西に町人町のだい町が続く。元禄年中(一六八八―一七〇四)以降のものとみられる城絵図(浅野文庫蔵)では佐武門から東に延びる道に「久ホ丁」と記され、この道の西端南側に会所が置かれている。

久保町
くぼちよう

[現在地名]松山市末広町すえひろまち

松山城下町の南端の町。末広町と弁天べんてん町に囲まれた地域を占める。東は末広町、西と南は藤原ふじわら村、北は弁天町に接する。元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「惣町数七拾壱町」のなかにも、各種の松山城下町図にも町名が見当たらないので、おそらく江戸後期になってから久保町と公称されるようになったのであろう。

久保町
くぼまち

[現在地名]大館市大下おおした

けい城北麓に位置し、本藩直臣の給人が居住する武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図および享保一三年(一七二八)の大館城下絵図に「久保町」とみえる。

久保町
くぼまち

[現在地名]川越市久保町

松郷まつごうの地に成立した下級武士屋敷町。通組とおりくみ町から東の川越浦和道沿いにある。北は南久保町の南側でほぼ並行して東西に延びる通り。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報