久留村(読み)ひさどめむら

日本歴史地名大系 「久留村」の解説

久留村
ひさどめむら

[現在地名]河浦町久留

北は白木河内しらきがわち村、東は宮野河内みやのがわち村に接する。羊角ようかく湾奥に立地し、久留川が西流して羊角湾に注ぐ。枝郷に古江ふるえ村・主留しゆうとめ村がある。「国志草稿」古江村の項に「船ツキアリ」と記される船着場が古江川河口にあった。慶長国絵図に「久冨」とみえる。正保郷帳に高一七九石四斗余とあり、古江村の高三八石一斗余(元禄国絵図では二〇石余)、重冨(主留)村の高六三石八斗余(同一九石余)を記す。万治二年(一六五九)石高半減により一〇二石七斗余となった(天草風土考)。壱町田組に属し、庄屋は小林家。元禄国絵図に古江村・主留村は当村の枝郷とある。「国志草稿」に竈数一五・男女数一七八とあるが、文政(一八一八―三〇)頃には高一五七石七斗余(うち新田畑五四石四斗余)、家数一〇五・人数六三三となり、新田畑の増加が目立つ。

久留村
ひさどめむら

[現在地名]羽合町久留

長瀬ながせ村の東に連続し、羽合浜の後背地に位置する。長瀬村の枝村で、寛文年間(一六六一―七三)当村付近を流れていた天神川改修によって、旧流路に開かれた新田村とみられる。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高二六一石余、高三二四石余、うち畑高三七石余。免三ツ五分で橋津はしづ御蔵納。定加損米三石二斗。産土神久留大明神があり、無役所、男三九・女二八。天保郷帳には長瀬村新田と注記して村名がみえ、高一二〇石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三一一石余、竈数二一。享保九年(一七二四)橋津村領の草山をめぐり、当村を含む五ヵ村と橋津村の間に争論があった。同一三年にはふな川筋の砂除けのため当村などに松が植えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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