二俣村(読み)ふたまたむら

日本歴史地名大系 「二俣村」の解説

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]金沢市二俣町・砂子坂町すなござかまち奥新保町おくしんぽまち

医王いおう山北西麓、森下もりもと川の支流田島たのしま川・豊吉とよよし川が合流する谷底平野に位置する。砂子坂・奥新保・新保・熊谷などの垣内を含んでいた(河北郡誌)。「加賀志徴」によれば、越中に抜ける古道が二筋あったという。一つは越中広瀬館ひろせたち(現富山県福光町)に出て城端じようはな(現同県城端町)に至る釜中かまなか越、もう一つは越中小又おまた(現福光町)南方に抜け福光ふくみつ(現同上)に至る道。「善徳寺系譜」によれば本願寺五世綽如の三男玄真の孫蓮真(玄永)が文安五年(一四四八)に初めて「加州河北郡井家庄砂子坂」に住し一寺(現城端町善徳寺)を建立、のちに三男実円(玄広)に譲ったという。「日野一流系図」によれば実円も「始賀州砂子坂」に住しており、のちともに越中法輪ほうりん(現福光町)、次いで山本やまもと(現同上)または松寺に住したという。蓮真が居住する以前、当地にはすでに「高坂四良佐ママ衛門」と弟道乗の道場(のちの光徳寺)があったという(元和九年光徳寺縁起之記録)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]永源寺町上二俣かみふたまた

池脇いけのわき村の北と西にあり、北部を蛇砂へびすな川が西流する。二又ふたまたとも記される。寛永石高帳に村名がみえ、高七二一石余、幕府領。慶安二年書上では田五八七石余・畑屋敷三七石余、永荒川欠け九六石余。元禄一一年(一六九八)山上藩領となる。市原いちはら郷六ヵ村の用水は和南わなみ村でしぶ川の堀越ほりこし井から和南川へ通水、その下流筋のの谷から上野原分木まで引き、上の郷の池脇・二俣・高木たかぎの三ヵ村と下の郷の市原野いちはらの一式いつしき石谷いしだにの三ヵ村に二分される。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]天竜市二俣町二俣

現天竜市の南部に位置し、天竜川中流左岸、同川支流二俣川の下流域に立地する。二俣川は寛政(一七八九―一八〇一)以前は村内南部を南流して鳥羽とば山北麓にぶつかり、西に流れを変えて川口かわぐちで天竜川に合流していた。このため天竜川の洪水時には合流点より水が逆流し、たびたび水害を被った。江戸期の当地方一帯の拠点で、二俣城下村(「二俣城図」遠江国風土記伝)、二俣村城下(松平忠頼領郷村帳)などと記された。慶長七年(一六〇二)松平忠頼(浜松藩主)の家臣堀重俊のしいわき神社宛の社領寄進状(田代家文書)によれば、「城下」二反八畝を寄進されているが、この城下しろしたも当村のことである。松平忠頼領郷村帳では二俣村城下とみえ、高二三四石余、田一一町四反余・畑一六町八反余、ほかに清瀧せいりゆう寺領六石余・栄林えいりん寺領五石、川口・北鹿島きたかじまの舟頭への給分と屋敷分の計二七石二斗がある。

二俣村
ふたまたむら

玉田たまた神社が鎮座する現佐原市丁子ようろご付近に比定される(「香取新誌」など)。香取社領。多俣・田俣ともみえ、丁子村に含まれていたと考えられる。応保二年(一一六二)六月三日の香取社大禰宜大中臣実房譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に「二俣村」とみえ、村内の「字浜畠」五反は大禰宜職に付属する金丸かねまる名・犬丸いぬまる名の畠であった。文治―建久(一一八五―九九)頃、実房の子の前神主知房は、神領であったが三〇年以上にわたって牧となっており、耕作されている畠が全くない状態となっていた村内の地を御灯料所とするため、堀・垣を整備し、百姓を説得して協力させ、再開発することを申請、この申請は下総国によって認められている(年月日未詳二俣村荒野開墾免許状断簡)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]妙高高原町二俣

北国街道に沿い、南は田切たぎり村、北は坂口さかぐち新田(現妙高村)に続く。文政三年(一八二〇)の頸城郡細見絵図によれば、両村との間は曲がりくねった坂道で、坂口新田との間に大田切おおたぎり坂と記され、難所として知られた。西へ向かうと一本木いつぽんぎ新田村。田切村は古くは小田切村と称したが、当村はこれに対する大田切の地であったと思われる。村域内には南北朝から戦国時代の様式をもつ五輪塔が残る。天正一〇年(一五八二)五月二日、上杉景勝本誓ほんせい(現上越市)の僧超賢に命じて「信州境大田切之城」を織田信長の将森長可の軍勢から守るよう命じている(本誓寺記)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]栄町善久寺ぜんきゆうじ渡前わたりまえ小古瀬おごせ

貝喰かいばみ川右岸を中心とする自然堤防上に開けた村で、北は芹山せりやま村、東は小古瀬新田のうち善久寺新田、南西は小古瀬村に接する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「二俣太炊助分 出雲田之庄内」とあり、疑問も多いが、当村と関係ある人物と考えられる。

慶長一〇年(一六〇五)新発田藩の給知方村々高目録(新発田市史資料)には、四四石五斗余で水入荒とある。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]八日市市下二俣町しもふたまたちよう沖野おきの四―五丁目・東沖野ひがしおきの五丁目

みなみ村の東にあり、北は沖野を隔てて神崎郡村。二又とも記される。一四世紀後半より一五世紀中頃には野背のせ村と称し、至徳元年(一三八四)一一月二六日の今堀郷神畠坪付(今堀日吉神社文書)に「柴原のせ三郎次郎」とある。一五世紀末からは二俣の呼称が定着し、明応八年(一四九九)には「蒲生上郡得珍保柴原郷二又後野川外」の畠地一反が「二又惣分」に対して売却されている(同年一二月一八日「七ツ石畠地売券」柴原南町共有文書)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]久美浜町字二俣

佐濃谷さのだに川の最上流部、奥山おくやま谷に沿って集落をつくる。南に川を上ってじようはた村、北に川を下って小桑こぐわ村に通じる。

慶長検地郷村帳に「佐野庄之内二股村」と記される。延宝三年郷村帳では佐野さの庄に続けて「同二俣分」高一一〇・三三石と別個に高付されている。延宝九年(一六八一)の延高で一三九石余となった(天和元年宮津領村高帳)

佐濃谷川の上流に位置する奥山は二俣の端郷で、昔は一八戸あったと伝える(佐野村誌)。砂鉄を流選したカンナ流しの跡が残り、「おく鍛冶かじ」にはたたらの跡が残る。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]富山市西二俣にしふたまた

鍛治かじ川左岸にあり、同川と六箇ろつか用水の合流点付近に位置。東は願海寺がんかいじ村、南は中老田なかおいだ村、北は鷲塚わしづか(現小杉町)小杉こすぎ宿(現同上)からそのまま東向して富山城下と結ぶ北陸街道(巡見使道)が通る。二又とも記された。射水郡に属し、加賀藩領。所属組は野々上ののうえ村と同じ。元和八年(一六二二)の花木新村一村建許可状(海内家文書)に二俣村宗すけの名がみえる。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]直入町上田北かみたぎた 二又ふたまた下竹しもだけ水口みずくち梶屋かじや

釘小野くぎおの村の北、せり川支流の二又瀬ふたまたせ川上流域に位置。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「二俣」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)江戸時代には幕府領直入郡一二ヵ村の一で、領主の変遷は井手野いでの村と同じ。正保郷帳に下田北村の内として村名がみえ、田高四六六石余・畑高二七六石余、ただし釘小野・名子山なごやま両村などの村高が含まれていたと思われる。元禄郷帳では高一五二石余。享保六年(一七二一)の村明細帳(田北フサ子文書)によれば同高で、反別田五町二反余・畑五町六反余、家数一三・人数八二、牛七・馬二、庄屋一・組頭二、御山藪四ヵ所・百姓持藪八ヵ所・薪伐場三ヵ所がある。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]白山町二俣

真見まみ村の西。布引ぬのびき山地の東麓で標高一六〇メートルの丘陵上にある。北に山を越えて城立じようりゆう村、西は福田山ふくたやま村に至る。南は山を下って竹原たけはら(現美杉村)に通ずる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「二俣之郷」と記し、高四一一石。近世は津藩領。元和五年(一六一九)以後一部和歌山藩領。「宗国史」によれば、寛延年中(一七四八―五一)の津藩領の家数六〇、人数二五三、馬一、牛二〇。津藩領三六〇石、和歌山藩領九一石とある。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]桜島町二俣

松浦まつうら村の東隣に位置する。天文八年(一五三九)島津貴久によって二俣などが樺山幸久(善久・玄佐)に宛行われたが、のちに藤野ふじのと交換となっている(樺山玄佐自記)。天正一一年(一五八三)までには本田正親領となっており、「上井覚兼日記」同一二年六月二一日条に「向島白浜と二俣堺論」とみえ、前年より上井覚兼領の白浜しらはまと境相論となっていた。同日正親は覚兼に解決を求めたが、一方の当事者である覚兼は第三者のむかい島地頭川上源五郎に仲裁を委ねることを提案し、正親はこれに同意している。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]日原町富田とみた

大木おおぎ村の北、高津川支流の二俣川の細流に沿って入った山間の村。後溢うしろえき中組なかぐみ石場谷いしばだん諸鹿もろしかの集落がある。慶長七年(一六〇二)の検地高五七石、大木村の枝村であった(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一九四石余、田一八町七反余・畑一四町二反余(「検地帳」同書)。延宝八年(一六八〇)の青原手鑑(日原町立歴史民俗資料館蔵)によると家数二五(本百姓一六・無縁九)・人数一三二、牛一二・馬一、紙漉舟一四、観音堂一、水神森一。文化一一年(一八一四)の村鑑(同館蔵)では高二〇八石余、田二〇町一反余・畑一七町八反余、家数三二(本百姓二八・下作四)・人数一六四、牛二〇・馬二、米蔵一、小社二(祇園社・大元社)、堂二(観音堂)、紙漉舟一八、鉄砲三。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]富山市二俣・二俣新町ふたまたしんまち

赤田あかだ村の南に位置し、南北に飛騨街道が通る。村内中央を川支流の二俣川が貫流する。富山藩領。二又村とも記される。初め古上野ふるうわの村に含まれており、同村は上野氏の名字の地とされる。永正一三年(一五一六)とみられる一〇月一三日の細川高国感状(上野竹雄所蔵文書)によると、太田おおた保に乱入した越後衆を文珠寺もんじゆじ(現大山町)で防戦した当地の上野彦次郎が賞されているが、鎮守の八幡社境内に彦次郎の墓所がある。その末葉は金泉寺きんせんじ村に移ったので、金泉寺の塚と通称される。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]玉東町二俣

木葉このは川の左岸、同川支流の白木しらき川の右岸に位置し、東は船底ふなそこ(現鹿本郡植木町)、西は白木しらき村、北は上木葉かみこのは村、南は西安寺さいあんじ村と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田二二町六反一畝余・畠屋敷五八町七反余・屋敷筆数一八、分米六五〇石六斗余。同一三年の検地帳では田二四町四反七畝・畠五〇町一反七畝余・屋敷三二筆二町三反六畝余、分米六五〇石六斗余、家数七八・人数九一、牛馬二三、下ケ名にふか町・おさう町などがある。同年の検地帳にはまた「二俣村出分中原村」があり、田三町九反九畝余・畠一二町二反六畝余・屋敷四筆七反三畝余、分米一三三石二斗余、家数一〇・人数一二、牛馬二。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]加古川市平岡町二俣ひらおかちようふたまた

中野なかの村の北東に位置する。二又村とも記す。中世は摂津住吉神社阿閇あえ庄に属したと考えられ、正平九年(一三五四)の住吉神社の造営には「二俣一色」が「預所二貫八百文 下司六百文 公文四百文 庄役二貫八百文」を負担している(同年八月日「住吉社造営用途注進状」住吉松葉大記)。天正一〇年(一五八二)八月二八日、羽柴秀吉は山名尭熙に対し、「ふた又」の高三三〇石の知行を認めている(「羽柴秀吉判物」記録御用所本古文書)。慶長六年(一六〇一)中村市右衛門は二俣村内・下西条しもさいじよう村内の高計一七〇石の知行を認められている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]輪島市二俣町

下黒川しもくろがわ村の南、鳳至ふげし川上流の山間に立地。文禄四年(一五九五)四月一三日の二又村番頭宛の渡田証文(二俣町区有文書)によると、別所谷べつしよだに村から池田いけだはさま・きとのたいらを譲り受けており、当時長百姓番頭氏が居住していたことがわかる。正保郷帳に二又村とみえ、高一一五石余、田方六町四反余・畑方一町三反。承応三年(一六五四)の村御印の高一一八石余、免五ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一二九石、免五ツ七歩、小物成は山役六〇匁・苦竹役七匁・漆役三匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]清見村巣野俣すのまた

有巣あつそ村の南に位置し、川上かわかみ川が中野なかの谷と金山かなやま谷に分岐、またまつ峠に向かう高山街道と南方郡上ぐじよう方面への道が分岐する。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高四石余、田八反余・畑一町二反余。「飛騨国中案内」によれば免は二割九厘余、家数五、うち百姓四・地借一。天明八年(一七八八)の田三石余・畑四石余、うち新田高三石余、反別田九反余・畑二町九反余、家数五・人数四六、馬四・牛二(村明細帳)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]市川市二俣一―二丁目・二俣・原木ばらき四丁目など

原木村の東に位置し、南には塩浜が広がっていた。佐倉道が通り、同道の北側に面して集落がある。江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に「二又」とみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四〇五石余。塩浜付の村方で、同一五年の検地では塩浜反別合四町余・年貢永八貫四七四文余であった(「塩浜由来書」国立史料館蔵)。塩浜反別は文化一二年(一八一五)には七町二反余、明治一五年(一八八二)には二二町五反余と増加傾向にあった。しかし年貢永は延享三年(一七四六)に四貫八五一文余、文化末年に三貫七二六文余と減少していた(市川市史)

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]大江町字二俣

南流するみや川西岸の宮津街道に沿い、北は内宮ないく村、南は天田内あまだうち村に接する。

慶長検地郷村帳に高二五五・一四石「二股村」とみえる。延宝九年(一六八一)の延高で四一二・四一八石となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領。

宮川支流の北原きたはら川の上流にある北原村、宮川と由良川の合流地点より下流の高津江たかつえ村とともに和紙製造が盛んで、明治以降も大江山鬼障子紙として京阪方面に出荷されたという。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]竹田市九重野くじゆうの

くち川上流にあり、北東は百木ももき村、南は肥後国阿蘇郡永野ながの(現熊本県高森町)。岡藩領西端で、村境が肥後との国境をなしている。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。弘化物成帳では九重野組のうち、村位は下、免四ツ、田九石余(一町一反余)・畑三二石余(七町八反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田はなく、開畑二石余(四町三反余)がある。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]武雄市橘町たちばなまち片白かたじろ字二俣

武雄川が六角ろつかく川に合流する地点に位置し、現武雄市朝日あさひ町と橘町の境にある。二又村とも書く。正保絵図に村名がみえる。

江戸時代の初め佐賀藩が新田開発を行った村で室町時代までは蘆の茂った低湿地帯であった。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]祖父江町二俣

領内りようない川の流域にあり、南はかぶと新田、北西は桜方さくらがた村に接する。「寛文覚書」によれば、概高四九一石三斗余、田一七町五反二畝余・畑一九町七反七畝余、家数五五、人数三〇二。

二俣村
ふたまたむら

[現在地名]湖北町二俣

丁野よおの村の北西にあり、集落の東を北国脇往還が通る。行基が奈良東大寺大仏殿建立の材木を当地に求めたと伝える(輿地志略)。山田郷山年貢等覚(東浅井郡志)に「ふた又」とみえ、天正一六年(一五八八)の家数二七、山年貢高一石余、同二〇年の屋敷高六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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