五代友厚(読み)ごだいともあつ

精選版 日本国語大辞典 「五代友厚」の意味・読み・例文・類語

ごだい‐ともあつ【五代友厚】

実業家。通称徳助、または才助。薩摩藩出身。ヨーロッパ視察後、藩の貿易拡張に努力。維新後、参与を経て実業界に転じ、鉱山、製藍、鉄道、紡績事業をおこし、大阪株式取引所、大阪商法会議所創設するなど、大阪の政商として活躍する。天保六~明治一八年(一八三五‐八五

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デジタル大辞泉 「五代友厚」の意味・読み・例文・類語

ごだい‐ともあつ【五代友厚】

[1836~1885]実業家。薩摩さつまの人。明治維新後、外交官から実業界に転じ、政商として活躍。大阪株式取引所・大阪商工会議所の創設、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立に尽力。

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朝日日本歴史人物事典 「五代友厚」の解説

五代友厚

没年:明治18.9.25(1885)
生年:天保6.12.26(1836.2.12)
明治時代の実業家。号を松陰。薩摩(鹿児島)藩の儒者五代直左衛門秀尭,母やすの次男。幼名徳助,または才助。少年時代には藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。安政1(1854)年父の死後,藩に出仕して郡方書役となるが,同4年藩命により幕府の長崎海軍伝習所に遊学,以後,明治1(1868)年まで主として長崎に居をかまえ,勝海舟,榎本武揚,寺島宗則,本木昌造,佐野常民,高杉晋作らと交遊し,トーマス・グラヴァーとも親交を重ね,開明的知識を養う。文久2(1862)年2度にわたって上海に渡り,薩摩藩のために汽船,武器を購入。文久3年,薩英戦争が起こると寺島宗則(当時松木弘安)と共に,英艦隊と交渉に当たるが,捕虜となり,横浜に拉致される。釈放後,武州,長崎などで亡命生活を送ったが,帰藩を許され,慶応1(1865)年薩摩藩留学生の引率者として英国に渡り,紡績機械,武器を購入し,またベルギー,フランスでは貿易商社設立契約や万国博への出品委託を行った。渡欧中,薩摩藩主に富国強兵に関する18カ条の建言書を送り,慶応2年帰国後は御用人席外国掛に任ぜられて,外国貿易,鹿児島紡績所の建設,長崎小菅修船場の建設,薩長合弁商社設立の計画を行うなど,薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに,諸藩の志士と交わる。明治政府成立後,参与となり,外国事務掛,外国官権判事,大阪府判事を歴任,大阪を中心として外交・貿易事務,造幣寮の建設にかかわるとともに,通商・為替会社設立などを契機に大阪経済界とも接触した。明治2年官を辞し,金銀分析所,弘成館(鉱山経営),朝陽館(製藍事業),大阪活版所,大阪製銅会社を設立。さらに阪堺鉄道,大阪商船,神戸桟橋会社の設立に関係するなど実業界に入った。また,旧来からの大阪商人の力を結集して,堂島米会所の再興,大阪株式取引所の創設,大阪商法会議所(現在の商工会議所)の設立,大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダーシップをとり,商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者となった。「財政救治意見書」を建白するなど大久保利通の経済政策ブレーンとしても知られ,明治8年の大阪会議では根回し役を務めた。政界との関係深く,政府から多額の補助金を得,明治14年には関西貿易会社を設立して北海道開拓使官有物払い下げ事件,いわゆる明治14年の政変を引き起こすなど,政商のイメージが刻印されている実業家であるが,沈滞気味であった明治初期の大阪経済界をリストラクチャリングさせた功績は大きい。<参考文献>五代竜作『五代友厚伝』,宮本又次『五代友厚伝』,日本経営史研究所『五代友厚伝記資料』

(宮本又郎)

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百科事典マイペディア 「五代友厚」の意味・わかりやすい解説

五代友厚【ごだいともあつ】

幕末・明治初期の政治家,実業家。薩摩(さつま)鹿児島藩士。幼名才助。24歳で水夫として上海に行きドイツ汽船を購入。薩英戦争の時には寺島宗則とともに英艦に捕らえられたが脱走。1865年藩命で留学生を率いて渡欧し,帰国後藩の洋式工業,貿易振興に努める。維新後大阪で造幣寮と特約の金銀分析所を設立して巨利を得る。殖産興業を進める大久保利通,大隈重信らと交わり,1881年の開拓使官有物払下事件に関与して非難をあびた。大阪の商法会議所・株式取引所の創設等,広く関西財界で政商として活躍。著書《薩摩辞書》。
→関連項目グラバー島津忠義広瀬宰平森有礼

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「五代友厚」の意味・わかりやすい解説

五代友厚
ごだいともあつ
(1835―1885)

実業家、政商。薩摩(さつま)藩士で儒者兼町奉行(まちぶぎょう)の五代直左衛門秀堯(ひでたか)の次男として生まれる。幼名を徳助、才助といい、松蔭と号す。長崎で航海、砲術、測量などの技術を習得、薩英戦争(1863)に参加し捕虜となるが脱出した。1865年(慶応1)藩命により留学生を引率しヨーロッパを視察、武器、船舶、紡績機械などの輸入を行い、薩摩藩の産業振興に大きく寄与した。維新後、官界に入るが、1869年(明治2)会計官権判事を最後に退官した。その後実業界に転じ、大阪を本拠として活躍。金銀分析所の設立によって巨富を得、1873年弘成館(買収鉱山の統括機関)、1876年朝陽館(製藍工場)を設立するなど、大阪の産業の近代化に貢献。また大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪堂島米商会所、商業講習所(大阪市立大学の前身)の設立、指導に尽力し、大阪財界の組織化にも貢献した。1881年開拓使官有物払下げ事件の中心人物として非難されたが、大阪の経済的発展、近代産業の開拓・移植などに果たした指導的役割は高く評価されている。なお、大久保利通(おおくぼとしみち)とは富国強兵・殖産興業などの点で意気投合し、征韓論争後大久保暗殺までの時期、関係は緊密であり、外交・財政問題について大久保の「智恵袋」として活躍した。

[石川健次郎]

『宮本又次著『五代友厚伝』(1981・有斐閣)』


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改訂新版 世界大百科事典 「五代友厚」の意味・わかりやすい解説

五代友厚 (ごだいともあつ)
生没年:1835-85(天保6-明治18)

明治期の政商。薩摩藩出身。幼名は徳助または才助,のちに友厚と改名。青年期に長崎の幕営海軍伝習所に留学,1859年(安政6)上海に密航して世界情勢を知り,富国強兵論を説く。65年(慶応1)藩命によりヨーロッパを視察。維新の動乱には,通商や武器の売込みなどで活躍し,新政府成立後,任官。外交官の役職を歴任後,大阪府判事まで昇進。69年(明治2)に同職を辞任後,関西財界で活躍,鉱山経営,製藍事業,大阪株式取引所,大阪商法会議所の設立や運営など,大阪の発展に貢献した。開拓使官有物払下事件にかかわるなど,政府の実権者大久保利通と結合し,政財界に勢力をのばすという点で典型的な政商の一人であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「五代友厚」の意味・わかりやすい解説

五代友厚
ごだいともあつ

[生]天保6(1835).12.26. 鹿児島
[没]1885.9.25. 東京
明治初期の実業家,政商。薩摩藩の出身。安政4 (1857) 年藩命で長崎に留学し,航海,砲術,測量を学ぶ。慶応1 (65) 年藩命によってヨーロッパを視察,帰国後は藩の開明派の指導者となり藩の貿易発展に活躍。明治維新後外国官権判事,大阪府判事を経て,明治2 (69) 年退官し,実業界に転身した。以来主として大阪の商工業の発展に尽力し,金銀分析所の開設,鉱山・製藍事業などの経営のほか,大阪堂島米会所復活,大阪株式取引所,大阪商法会議所,東京馬車鉄道会社,神戸桟橋会社などの創立に活躍した。他方では大久保利通,木戸孝允,井上馨,伊藤博文,板垣退助らを集めた「大阪会議」の斡旋に成功するなど,明治初期の政界の黒幕的存在でもあった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「五代友厚」の解説

五代友厚
ごだいともあつ

1835.12.26~85.9.25

明治期の実業家。大阪財界の指導者。薩摩国生れ。1854年(安政元)鹿児島藩郡方書役(かきやく)となり,長崎に遊学,上海・欧州に渡航した。明治維新後,外国事務局判事・大阪府権判事・会計官権判事などを歴任。69年(明治2)官を辞して金銀分析所を開設,73年には弘成(こうせい)館を創設して,半田銀山・天和銅山・蓬谷(よもぎだに)銀山・栃尾銅山などを経営した。76年政府から融資をうけて朝陽館を創立し製藍業を開始。堂島米商会所・大阪株式取引所の設立に尽力し,78年大阪商法会議所の初代会頭に就任した。81年関西貿易社を設立したが,開拓使官有物払下げ事件をおこして同年解散。東京馬車鉄道・阪堺(はんかい)鉄道・神戸桟橋の設立にも尽力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五代友厚」の解説

五代友厚 ごだい-ともあつ

1836*-1885 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)6年12月26日生まれ。もと薩摩(さつま)鹿児島藩士。元治(げんじ)2年藩命で渡欧,武器や機械類を輸入。維新後官界から実業界に転じ,大阪を本拠に鉱山,製藍,鉄道などの事業をおこす。明治11年大阪商法会議所を設立し,会頭。14年開拓使官有物払い下げ事件をおこした。明治18年9月25日死去。51歳。幼名は徳助,才助。号は松陰。
【格言など】男児,財産をつくるためにこの世に生をうけたのではない(信条)

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旺文社日本史事典 三訂版 「五代友厚」の解説

五代友厚
ごだいともあつ

1835〜85
明治前期の実業家
薩摩藩出身。幕末イギリスに留学。1868年外国事務局判事・大阪府権判事などを歴任したが,翌年官を辞し実業界に転身,政商として各種事業にあたった。'81年には関西貿易社を設立し,開拓使官有物払下げ事件をひきおこしたが,大阪堂島米商会所・株式取引所・商法会議所などの創設をはじめ,大阪の経済的発展に大いに貢献した。

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世界大百科事典(旧版)内の五代友厚の言及

【アイ(藍)】より

…しかし,開国以来のインド藍の大量輸入や国内の染織業界の機械による工場生産への切替えは,しだいに阿波藍をはじめ国内藍の基盤をゆさぶった。これに対処して五代友厚の朝陽館による製藍法の改良事業などが興り,徳島でも五代友厚が1874年名東郡下に工場を設置し,精藍事業に着手した。さらに99年には長井長義の指導のもとに精藍伝習所が設置され,いわゆる長井製藍が始まった。…

【開拓使官有物払下事件】より

…藩閥政府攻撃が強まったため,明治14年の政変をひきおこした。開拓長官黒田清隆は,開拓使官吏の結成する北海社と,関西の政商で鹿児島出身の五代友厚らがつくった関西貿易商会とに開拓使官営諸事業を払い下げ,継承させようとし,8月1日政府は黒田の要求を認めた。払下物件は,当時建設中だった幌内炭坑や鉄道を除くほとんどの官船,倉庫,工場,鉱山などをふくみ,38万7000余円,無利息30年賦という破格の条件だったことから,薩摩閥の官僚・政商が結託して官物を私するものとして,はげしい憤激を呼んだ。…

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

※「五代友厚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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