出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
幕末~明治期の政治家。「てらじまむねのり」ともいう。天保(てんぽう)3年5月23日、薩摩(さつま)藩郷士(ごうし)の家に生まれる。医家松木家の養子となり弘安(こうあん)(弘庵、弘菴)と称す。明治維新後に寺島陶蔵(とうぞう)と改名。蘭学(らんがく)を修めて藩医となり、招かれて蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝、遣欧使節に随員を志願、西洋諸国を視察。1863年(文久3)帰藩して御船奉行(おふねぶぎょう)となる。薩英戦争ののち、1865年(慶応1)藩留学生を引率して再度渡欧し、雄藩連合による封建制変革を藩庁に進言する一方、イギリス外相クラレンドンには幕府の貿易独占を非難し、藩との直接貿易を申し入れ、薩英友好、倒幕促進に貢献。明治新政府成立後は参与などに就任、外交担当の開明派官僚として排外事件の難局を処理、西洋文明導入に尽力した。外務大輔(たいふ)を経て1873年(明治6)征韓論争直後、参議兼外務卿(きょう)に就任、条約改正交渉に着手、アメリカとの間で関税権回復に成功したが、他の列強の承認を条件とされたため条約を発効させえなかった。このほかロシアとの間に樺太(からふと)・千島交換条約を締結、1879年辞任ののちは、政界の第一線から退き、元老院議長、枢密院副議長などを務め、伯爵に叙せられている。学者肌で、とくに語学には堪能(たんのう)であった。明治26年6月6日没。
[田中時彦]
『寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集』上下(1987・示人社)』▽『犬塚孝明著『寺島宗則』(1990・吉川弘文館)』
明治前半の外政家。薩摩藩郷士長野祐照(すけてる)の次男として生まれ,伯父松木宗保(医家)の養嗣子となる。弘庵(弘安)ともいい,のち寺島陶蔵と改名,宗則と称した。早くから蘭法医学を学び,20歳で薩摩藩医となった。1856年(安政3),幕府の蕃書調所の教授方手伝となり,61年(文久1)12月,幕府の遣欧使節に通訳兼医師として,福沢諭吉,福地源一郎らと随行した。63年7月の薩英戦争では五代友厚(才助)とともに捕虜となり,横浜に護送されたが,イギリス側の黙許のもとに脱艦した。65年(慶応1),薩摩藩留学生として渡英,西南雄藩中心の自由貿易主義に立った変革構想をイギリス外相クラレンドンに語り,これは,同外相より駐日イギリス公使パークスへの指示になったという。明治新政府にあっては外交問題の処理に当たり,明治6年(1873)10月の政変後,副島種臣のあとをうけて参議兼外務卿となり,1875年,ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ。条約改正問題では,まず関税自主権をえることを急務とし,76年からアメリカと交渉し,78年その同意をえたものの,イギリスなどの反対にあい成功しなかった。79年文部卿となり,のち法制局長官,元老院議長,駐米公使,枢密顧問官,同副議長,宮中顧問官などを歴任した。読書を好み,学者肌の政治家だった。
執筆者:田中 彰
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(犬塚孝明)
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1832.5.23~93.6.7
幕末~明治前期の外交官。伯爵。鹿児島藩の郷士の家に生まれる。一時,伯父松木家の養子となり弘庵(安)(こうあん)と名のった。蘭方医学を学び,島津斉彬(なりあきら)の侍医,蕃書調所の教官を勤めた。幕府の遣欧使節に随行。薩英戦争で五代友厚とともにイギリス艦に捕らえられ和議に尽力。1865年(慶応元)鹿児島藩留学生を率いて渡英。明治政府に出仕し,外務大輔・駐英公使などをへて,73年(明治6)参議兼外務卿となり,樺太・千島交換条約と日朝修好条規の調印,アメリカとの条約改正交渉の推進など,明治初期の外交の中心人物として活躍。79年文部卿に転じ,元老院議長・駐米公使・宮中顧問官・枢密顧問官・同副議長などを歴任。憲法草案審議にもあたった。
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