出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。長門国(ながとのくに)(山口県)の藩士井上勝行の三男として生まれる。野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍し井上勝と称した。長崎や江戸、そして箱館(はこだて)(函館)の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)の塾で洋学を修めた。1863年(文久3)伊藤俊輔(しゅんすけ)(伊藤博文(ひろぶみ))、井上聞多(もんた)(井上馨(かおる))、山尾庸三(ようぞう)(1837―1917)、遠藤謹助(1836―1893)らとイギリスに密航、ロンドン大学で鉄道、鉱山技術を学び、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられたが、翌1872年鉄道頭専任となり、東京―横浜間の鉄道敷設に尽力した。関西で鉄道建設が始まると鉄道寮の大阪移転を断行した。外人技師主導からの自立を目ざし、日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都―大津間の敷設には、彼自身技師長となり、初めて日本人だけで工事を完成した。技監、工部大輔(たいふ)、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年、川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。ロンドンで客死。
[菊池俊彦]
『上田広著『井上勝伝』(1956・交通日本社/改題改訂復刻『鉄道事始め――井上勝伝』・1993・井上勝伝復刻委員会)』
(沢井実)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
“鉄道の父”と呼ばれた明治前期の鉄道官僚。長州藩士の家に生まれた。1863年(文久3)同藩の井上馨,伊藤博文らとともに国禁をおかして渡英し,鉱山と鉄道を研究して68年(明治1)に帰国。69年造幣頭兼鉱山正,71年鉱山頭兼鉄道頭に就任,日本最初の鉄道である東京~横浜間鉄道の建設に従事した。その後,鉄道局長,鉄道庁長官を歴任し,とくに東海道線の建設では常に陣頭指揮に立ち,他方,幹線鉄道国有主義を主張して政府の鉄道政策に大きな影響を及ぼした。90年貴族院議員となり,93年に退官した後は機関車の国産化のため大阪に汽車製造合資会社を設立。また1909年には帝国鉄道協会の会長に就任。翌10年,鉄道院顧問として欧米の鉄道視察の途上,ロンドンで客死した。
執筆者:野田 正穂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1843.8.1~1910.8.2
明治期の鉄道官僚。長門国生れ。萩藩士の三男。1863年(文久3)脱藩してイギリスに密航,ロンドン大学で土木・鉱山学を学ぶ。68年(明治元)に帰国後明治政府に出仕,鉄道行政にかかわり鉄道頭・鉄道局(庁)長官などを歴任。91年に著した「鉄道政略ニ関スル議」は,官設官営主義の立場から全国的な鉄道体系を構想したもので,翌年の鉄道敷設法制定の契機となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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