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井上馨【いのうえ・かおる】

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  • 朝日日本歴史人物事典の解説

  • 生年: 天保6.11.28 (1836.1.16)
    没年: 大正4.9.1 (1915)
    明治大正期の政治家。号は世外。萩(長州)藩士井上光享の次男安政2(1855)年同藩士志道慎平の養嗣子となり,参勤交代に随行して江戸に出て,蘭学,砲術を学ぶ。万延1(1860)年小姓役となり藩主より聞多の名を賜る。文久2(1862)年高杉晋作,伊藤博文らと英国公使館を襲撃するなど攘夷急進派として活動。3年伊藤らと英国に渡航,開国の必要を悟った。翌元治1(1864)年萩藩の外国船砲撃の報を聞き急遽帰国,英国公使パークスと藩当局の調停に奔走した。幕府の長州征討に対しては武備恭順,勢力温存策を唱えた。慶応2(1866)年高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加。薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器,外国船の購入などに携わった。維新政権の成立にともない参与職,外国事務掛,九州薩摩総督参謀,長崎裁判所参謀,外国事務局判事,長崎府判事兼外国官判事,長崎府武器修理御用掛などを務めたのち,明治2(1869)年大蔵省に移り造幣頭。民部大丞兼大蔵大丞,大阪府大参事心得を兼ね,造幣事業の進展に努力した。その後民部少輔,民部大輔を経て4年大蔵大輔となり,廃藩置県後の中央財政の確立,銀行,会社の創設に努めた。しかし大蔵省と井上グループの勢力増大に対する反発も強く,尾去沢銅山私有事件を追及され,6年5月辞職。その後,先収会社(のちの三井物産)の設立など実業にかかわったが,8年元老院成立で議官となり,9年江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規調印に立ち合ったのち,欧州出張。11年7月帰国して参議兼工部卿。12年外務卿(のち外務大臣)。 このあとの8年間は,条約改正と対朝鮮および中国問題が主な外交問題であった。また条約改正作業関連した欧化政策がある。条約改正では以前の個別交渉方式を捨て列国会議方式をとり,法権回復優先させようとした。壬午事変(1882),甲申事変(1884),清仏事変(1884~85)などの対外問題では脱亜主義ではなく日清提携をふくむアジア主義的な策をとった。20年本格化した条約改正交渉に強い反対噴出したため,交渉を中止し外務大臣を辞任した。一時宮中顧問官に就いたのち,21年農商務大臣となるが,山県有朋内閣成立とともに辞職。第2次伊藤内閣(「元勲総出内閣」)で内務大臣。27年10月,朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出したが,借款政策をめぐる伊藤,陸奥宗光外相などとの対立,ロシアの朝鮮進出もあって不満のうちに翌28年辞任した。第3次伊藤内閣の大蔵大臣となり地租増徴をねらったが失敗。第4次伊藤内閣の後継首相の説もあったが桂太郎が首相となり,藩閥第2世代が内閣を担当する時代に移った。40年侯爵。その後も政界および財界の元勲の地位を保持した。議会開設後の対政党策をめぐる元老層の紛争を調停し,藩閥グループの結束と影響力の延命をはかるのに大きな役割を果たした。<参考文献>『世外井上公伝』全5巻(復刻,1968)
    (酒田正敏)

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  • デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

  • 井上馨 いのうえ-かおる
     
    1836*-1915 幕末-大正時代武士,政治家。
    天保(てんぽう)6年11月28日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。文久3年伊藤博文らとイギリス渡航して攘夷(じょうい)から開国倒幕派に転じる。新政府大蔵大輔(たいふ)となるが,実業界にうつり先収会社(のちの三井物産)を設立。明治12年外務卿,18年第1次伊藤内閣の外相となり,不平等条約改正のため鹿鳴館を中心に欧化政策をすすめるが,失敗。のち農商務相,内相,蔵相などをへて元老侯爵。大正4年9月1日死去。81歳。周防(すおう)(山口県)出身。一時,志道聞多(しじ-もんた)を名のる。号は世外。
    格言など】政府をしっかりしたものにするには,皆掛りでやらねばならぬ,君もぜひ政府へ入れ(三井物産の益田孝に対して)
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    (C)Kodansha 2009.
    書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

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  • 美術人名辞典の解説

  • 政治家・公爵。山口県生。号は世外・三猿、名は聞多。蘭学・砲術を修め、伊藤博文らとイギリスに留学、帰国後木戸孝允らと薩長連合に奔走する。維新後は新政府参与となり外交・財政の衝に当り、のち伊藤内閣の外相・内相・蔵相を務めた。大正4年(1915)歿、81才。

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  • 防府市歴史用語集の解説

  •  萩藩[はぎはん]出身の政治家で、伊藤博文[いとうひろぶみ]たちとイギリスに留学していましたが、1864年、下関砲撃事件[しものせきほうげきじけん]を聞いて帰国し、通訳として講和に参加しました。 明治維新の後は、外交や財政の大臣となっています。

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  • デジタル大辞泉の解説

  • いのうえ‐かおる 〔ゐのうへかをる〕 【井上馨】
     
    [1835~1915]政治家。山口の生まれ。通称、聞多(もんた)。幕末の尊王攘夷運動に参加。第一次伊藤内閣の外務大臣として欧化政策をとったが、世論の反対にあい、条約改正交渉に失敗。農商務相・内務相・蔵相を歴任。のち元老として国政関与
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  • 百科事典マイペディアの解説

  • 明治の政治家。長州萩藩士の家に生まれ,養子となって志道(しじ)聞多と称したが,のち井上家に復帰。青年時代尊攘(そんじょう)倒幕運動に献身。維新後1871年大蔵大輔として地租改正,秩禄処分を推進したが,政府財政を批判し辞職 (1835/36-1915)
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  • 大辞林 第三版の解説

  • いのうえかおる【井上馨】
     
    (1835~1915) 政治家。長州の人。通称を聞多。討幕運動に活躍。第一次伊藤内閣の外相として条約改正に尽力,また極端な欧化政策を推進。のち農相・内相・蔵相などを歴任。元老として,政財界に重きをなした。

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