伴 淳三郎
バン ジュンザブロウ
- 職業
- 喜劇俳優
- 本名
- 鈴木 寛定(スズキ ヒロサダ)
- 別名
- 旧芸名=鈴木 のぼる(スズキ ノボル),東木 寛(トウギ カン)
- 生年月日
- 明治41年 1月10日
- 出生地
- 山形県 米沢市
- 経歴
- 幼い頃に父を亡くし、親類の間を訪ね歩く。俳優を志して東京・浅草の劇団などを転々とし、昭和2年伴淳三郎の芸名で映画「辰巳嵐」に出演。その後も撮影所や劇団を渡り歩き、映画「赤穂浪士」「竜巻長屋」「串差おでん」「風雲髭往来」「吉田御殿」「忍術太平記」「孫悟空」などに出演。戦時中は伴淳軽喜座座長として浅草を中心に巡業を行い終戦を迎えた。戦後も舞台の傍ら映画に出演、26年「吃七捕物帖・一番手柄」の1シーンで「一瞬にしてパアでございます」という台詞を、山形弁で老人が驚いたときに発する“アジャジャー”という言葉を交ぜて「アジャジャーにしてパーでございます」と口にしたところ、大いに受け、“アジャパー”として流行語になり、「アジャパー天国」「名探偵アジャパー」なども製作された。以来、喜劇俳優“伴淳”として名を高め、高田浩吉主演の〈伝七捕物帖〉シリーズでは子分の“獅子っ鼻の竹”の役でコメディー・リリーフとして活躍、花菱アチャコと組んだ軍隊喜劇「二等兵物語」では主役を演じ、当たり役として計10作が作られる人気シリーズとなった。36年からは森繁久弥、フランキー堺と共演した〈駅前〉シリーズがスタート、東北弁で人間くさい中年おやじを好演し、計24本が製作された。39年内田吐夢監督の「飢餓海峡」に出演、内田の厳しい演技指導もあり、犯人を追い続ける老刑事役で新境地を開き、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。他の出演に映画「戦後派親父」「あっぱれ五人男」「ハワイ珍道中」「男の花道」「伴淳・森繁の糞尿譚」「気違い部落」「水戸黄門漫遊記」「伴淳の三等校長」「蛍火」「太陽の墓場」「愛の讃歌」「どですかでん」「人間の証明」などがあり、戦後だけで300本を越える。テレビにも「ムー一族」「熱中時代・刑事編」など数多く出演。晩年は福祉運動に情熱を傾け、一人で始めた“あゆみの箱”は全芸能界的行事に発展。女優の清川虹子は元夫人。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和53年〕 ブルーリボン賞(大衆賞)〔昭和37年〕 毎日映画コンクール男優助演賞〔昭和40年〕「飢餓海峡」
- 没年月日
- 昭和56年 10月26日 (1981年)
- 伝記
- 乾杯!ごきげん映画人生あの日あの夜―森繁交友録あゆみの箱―芸能人が始めたボランティアオモロイやつら浅草フランス座の時間歌だ映画だ人生は伴淳三郎 道化の涙 瀬川 昌治 著森繁 久弥 著野田 洋典 著竹本 浩三 著井上 ひさし,こまつ座 編著秋津 健 著田山 力哉 著(発行元 清流出版中央公論新社KTC中央出版文芸春秋文春ネスコ,文芸春秋〔発売〕朝日新聞社社会思想社 ’07’05’02’02’01’89’88発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
伴淳三郎 (ばんじゅんざぶろう)
生没年:1908-81(明治41-昭和56)
〈バンジュン〉の愛称と,1950年代の流行語となった〈アジャパー〉なる受けことばで親しまれたコメディアン。本名鈴木寛定(ひろさだ)。山形県米沢市に生まれ,貧しい南画家を父にもち,幼いころから各地を転々とした。剣戟(けんげき)が看板の大衆演劇に加わったりしたが,1927年,日活時代劇部の大部屋に入り,伴淳三郎を芸名とする。やがて珍優として売り出すが,いまひとつ〈看板〉になれないまま,映画界と演芸界をまたにかけてがんばる。太平洋戦争中から,浅草を本拠に〈伴淳軽喜座〉を主宰し,戦後は〈伴淳ショウ〉の旗上げなどもするが,全盛のストリップショーに押されて,いずれも長続きはしなかった。
本格的な映画カムバックは51年で,同年の斎藤寅次(二)郎監督の《吃七捕物帖・一番手柄》で贋金(にせがね)作りの用心棒を演じ,首領の金語楼に〈一瞬にしてパーでございます〉と報告,〈敵か味方か?〉〈味方がパー〉と,手先を上に向けて,オフビートなタイミングで指をパッと開いたのが受けた。それを,びっくりしたときの〈アリャー〉が山形弁で〈アジャー〉となまるおかしみにつなげ,ショックを受けたとき〈アジャー〉〈パー〉と叫ぶのが,一世をふうびした。かくてバンジュンは,40代で一躍人気コメディアンとなったが,1本の映画を背負って立つスターではなく,あくの強い怪演で,共演者を食うときに生彩を放つタイプは一貫して変わらなかった。共演に花菱アチャコを配し,荒っぽいペーソスをきかせた《二等兵物語》シリーズ(1956-61)や,森繁久弥,フランキー堺を向こうに回し,ねちっこい助平おやじタイプで場面をさらった《駅前》シリーズ(《駅前旅館》,1958-69)などがその好例である。みずからの芸風を〈泥くさい異常男〉と称していたというが,《歌くらべ荒神山》(1952,斎藤寅次郎)の,なぜか語尾だけ尾張弁になる怪浪人も,本格的な立回りができる特技を生かした,不気味なこっけいさという持味の代表作といえる。後年は(日本のコメディアンの通例にもれず)シリアスな〈個性的な脇役〉へと方向を転じ,内田吐夢の《飢餓海峡》(1964)の老刑事で,毎日映画コンクール男優助演賞を受けた。
執筆者:森 卓也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
伴 淳三郎
バン ジュンザブロウ
昭和期の喜劇俳優
- 生年
- 明治41(1908)年1月10日
- 没年
- 昭和56(1981)年10月26日
- 出生地
- 山形県米沢市
- 本名
- 鈴木 寛定(スズキ ヒロサダ)
- 別名
- 別名=鈴木 のぼる,東木 寛
- 主な受賞名〔年〕
- ブルーリボン賞(大衆賞)〔昭和37年〕,毎日映画コンクール男優助演賞〔昭和40年〕「飢餓海峡」,紫綬褒章〔昭和53年〕
- 経歴
- 東京・浅草で劇団を渡り歩いた後、昭和2年からは伴淳三郎の芸名で映画にも出演。浅草を本拠に一座の結成、解散を繰り返したが、26年一代の流行語“アジャパー”と独特の山形弁で一躍スター“伴淳”となった。その後、「伝七捕物帖」シリーズ、「二等兵物語」シリーズ、「糞尿譚」、「気違い部落」、「駅前」シリーズなど、映画全盛期を彩る傑作を出した。40年には東映「飢餓海峡」に老刑事役で出演、毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。出演作は多く戦後だけで300本を越える。テレビにも「ムー一族」「熱中時代・刑事編」など数多く出演。晩年は福祉運動に情熱を傾け、一人で始めた“あゆみの箱”は全芸能界的行事に発展。女優の清川虹子は元夫人。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
伴淳三郎【ばんじゅんざぶろう】
俳優。山形県出身。本名鈴木寛定(ひろさだ)。早くから大衆演劇を転々とし,1927年日活に入社するが,売れないまま映画界と演芸界を放浪。1942年〈伴淳喜劇座〉を主宰し各地を巡業。本格的な映画復帰は1951年の《吃七(どもしち)捕物帖・一番手柄》で,驚きを表す〈アジャ・パー〉のせりふが大流行し,一躍人気コメディアンとなる。その後《二等兵物語》シリーズ,《駅前》シリーズ,《飢餓海峡》などに出演し,名脇役として活躍。1978年紫綬褒章受章。
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伴淳三郎 ばん-じゅんざぶろう
1908-1981 昭和時代の映画俳優。
明治41年1月10日生まれ。長い下積みのあと昭和26年映画「吃七(どもしち)捕物帖一番手柄」でつかった台詞(せりふ)「アジャパー」が流行し,人気コメディアンとなる。のちシリアスな役柄でも成功。昭和56年10月26日死去。73歳。山形県出身。本名は鈴木寛定(ひろさだ)。出演作品に「二等兵物語」シリーズ,「駅前」シリーズ,「飢餓(きが)海峡」など。
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伴 淳三郎 (ばん じゅんざぶろう)
生年月日:1908年1月10日
昭和時代の喜劇俳優
1981年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の伴淳三郎の言及
【駅前旅館】より
…製作は東宝の子会社,東京映画。いずれも森繁久弥,伴淳三郎,フランキー堺のトリオを主役に,毎回変わる設定のなか,3人の持味を生かし,人情コメディを基本に,ドタバタ喜劇の活力,社会風俗の同時代性,新旧世代の心情の違いによる哀感などを巧みに取り入れ,人気を博した。《駅前旅館》は,井伏鱒二の同名小説を原作とする[豊田四郎]監督作品で,上野駅前の旅館の番頭(森繁)とライバル旅館の番頭(伴淳)と旅行社の添乗員(フランキー)を中心に(この3人の芸達者の〈芸〉が大きな見せどころになる),移りゆく旅館街のてんやわんや,お色気騒動などが描かれ,風俗映画の佳作となっている(例えば地方から慰安旅行に出てきた新興宗教団体の一行に〈今流行のドカビリを見せてけれ〉と請われたフランキー堺が三味線をギターに見たててロカビリー歌手を熱演すると,そのリズムに乗った一行から賽銭が飛んでくるといったシーンがある)。…
※「伴淳三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」