住吉町(読み)すみよしちよう

日本歴史地名大系 「住吉町」の解説

住吉町
すみよしちよう

ほり川に架かる津知つち橋を西へ渡り、川に沿って南下する通りに面した所と、そこから西へ走る津知橋通より一筋南の東西通りに面した地域。当町以西は伏見城下堀外の地で、伏見城下町造成にあたり湿原地帯を外堀の土で埋めて形成した新市街。

当町は住吉神を祀る大椋おおくら神社を中心に形成されていた伏見九郷の一つもり村の住民が移転させられてできた町であると伝える。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]函館市住吉町・青柳町あおやぎちよう

明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際に、尻沢辺しりさわべ町を細かく区画割してできた町の一つで(「事業報告」第一編)やなぎ町の南東に位置し、南は町域縮小後の尻沢辺町で、南東は海に面していた。町名は当地に祀られる住吉神社に由来する。明治九年の現住戸口は三九戸・二〇〇人(函館支庁管内村町別戸口表)

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]中央区日本橋人形町にほんばしにんぎようちよう二―三丁目

玄冶店げんやだなの南にあり、西は堺町横さかいちようよこ町・元大坂もとおおさか町、東は難波なにわ町、南は住吉町裏河岸に接する東西に続く両側町。西は人形町にんぎようちよう通に面する。寛文新板江戸絵図に「住吉丁」とみえる。明暦三年(一六五七)吉原よしわら移転後その旧地内きよう町跡地にできた町で(御府内備考)高砂たかさご町と同様に謡曲からとった町名という(東京府誌)。安永三年小間附町鑑によれば京間一二二間六尺三寸、公役金を納める。名主は高砂町と同じ。面積は一千八四〇坪余、町を南北に分ける住吉通は道幅四間(「寛保沽券図」中央区京橋図書館蔵)

住吉町
すみよしちよう

下京区西中筋通六条下ル

南北に通る西中筋にしなかすじ(堀川通)を挟む両側町。北側は六条通(旧六条大路)にも面する。

平安京の条坊では、左京七条二坊四保九町の地。

近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち住吉組に所属。旅館街である「客屋十二町」の一つ。町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「西中筋一丁目」とあるが、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には現町名「住吉町」がみえる。町名由来は「坊目誌」に、「相伝ふ寺内と為る以前住吉ノ神祠あり。因て名く。其興亡の年月詳ならず。或云ふ。本国寺中に人麿祠あり。五条の玉津島社と併せて。和歌の三神社とす。今中堂寺町にある住吉神社是なる歟」と記す。

開創以来当町にある寺院で現存するのは、一行いちぎよう寺と善蓮ぜんれん寺の二寺。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]高崎市住吉町

明治三年(一八七〇)赤坂あかさか村出先が分離して成立した町。江戸時代は城郭の北方、相生あいおい町の北にあたる地域で、北端に長野ながの堰が流れる。三国街道両側の南北に細長い町で、「更正高崎旧事記」に「住吉町ハ旧赤坂村字出先ノ耕地也、明治三庚午年三月三日御指令、新タニ町名ヲ置ク、其以前ハ町並人家ノ地ヲ字大橋ト称シタリ、(中略)嘉名ヲ撰バントシ、住吉、竹川、真砂等ヲ紙ニ書籤」とあり、住民の投票により町名を決めている。早くに人家が建ったのは、飯塚いいづか村字大橋おおはし分であったためのようで、東側は赤坂村字前請地まえうけち、西側は赤坂村字台原だいはらであった。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]中区さかえ三丁目

富沢とみざわ町の南、広小路ひろこうじから花屋はなや町筋までの三ヵ丁をさす。初め中間が住んだので御中間おちゆうげん町ととなえたが、承応年中(一六五二―五五)に改称(尾張城南陌名由緒)。江戸時代初期は野原が多く、一部前津小林まえづこばやし村の地にかかっていた。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]伊丹市伊丹三丁目

伊丹町を構成する二七ヵ町の一つ。大手おおて町・さかい町の西に位置する。寛文九年(一六六九)の伊丹郷町絵図には人家が描かれ、天和―元禄年間(一六八一―一七〇四)までに町が成立したという(文禄伊丹之図)。初めはふくろ町と称し、寛文―元禄に改称したという(「正心調法記」武田家文書)。会所入用割の間数は一八五間(同記)。町内に御屋敷地という一角があるが由緒は未詳。近衛家と関係づける説もあるが、文禄伊丹之図にも区画と家屋が描かれている。元文二年(一七三七)御屋敷の建屋が入札により地質貸になり、同五年御金方支配になった(有岡庄年代秘記)

住吉町
すみよしまち

[現在地名]和歌山市住吉町

中之店北なかのたなきたノ丁の北に続く縦町で、西は北桶屋きたおけや町。東側の町裏には元寺もとでら町東側の下級武家屋敷が並ぶ。町名は慶長六年(一六〇一)の町割の時に当町に住吉神社を遷座したことによるが、同社は現在和歌川北新町きたしんまち川の合流点付近の埋立地(新築地)に移っている。また同社の別当寺とされた真言宗山階派利益りやく院は、現在みなと地区に移転している。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]弘前市住吉町

城の南東に位置し、土淵つちぶち川の東側、山道やまみち町・品川しながわ町に接し、南側を富田とみた村が囲む。

津軽一統志」によれば、宝永五年(一七〇八)富田村領に住吉大明神社地がおかれ、町名は社名に由来する。明和元年(一七六四)の藩律に、城東の士街として町名があり、侍屋敷が一一戸。寛政改革の藩士土着令により町内居住の藩士は在方へ移住し、寛政五年(一七九三)御家中潰町となった(平山日記)

住吉町
すみよしまち

[現在地名]魚津市上口かみぐち二丁目

かど川左岸にあり、西は橋向はしむかい町・新塩屋しんしおや町、北は八代やしろ町など、東と南は住吉村。橋向町と新塩屋町の境から住吉村・川縁新かわべりしん村方面に延びる道は住吉村道とよばれ、町並はこれに沿って広がる。

住吉町
すみよしちよう

下京区河原町通七条上ル

南北に通る河原町かわらまち通を挟む両側町で、北側は下珠数屋町しもじゆずやまち通にも面する。

平安京の条坊では左京七条四坊三保一二町東側・一三町西側。平安中期以降は北小路万里小路南にあたる。

町の形成は、溜池町と同じく渉成園しようせいえん建営にあたっての市街地化によると思われる。

住吉町
すみよしちよう

下京区醒ヶ井通高辻下ル

南北に通るさめ通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊三保一二町の地。永禄一一年(一五六八)正親町天皇の勅によって当町に住吉神社が遷座(平安通志)、当町の呼称もこれに由来する。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「住吉丁」、寛永一八年以前平安城町並図にも「すみよし丁」とあって、既に現町名が使用される。

住吉町
すみよしちよう

[現在地名]釧路市住吉一―二丁目・千歳町ちとせちよう鶴ヶ岱つるがだい一―三丁目

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(モシリヤ、ハルトル)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報