デジタル大辞泉 「住吉」の意味・読み・例文・類語
すみよし【住吉】[地名]
大阪市南部の区名。昭和18年(1943)阿倍野・東住吉を分区し、同49年住之江を分区した。住宅地。臨海工業地帯。住吉大社などがある。
「住吉大社」の略。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
王府時代の
琉歌で「月やあまこまになかめてとむきやる うきよすみよしのあきの今宵(月はあちらこちらで眺めてみたが、浮世が住みよい住吉の秋の今宵の月にまさるものはない)」のように住みよいということと地名の住吉とが掛けて詠まれる(古今琉歌集)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪市南西部,上町(うえまち)台地南端一帯の地名。現在の大阪市住吉区に比定される。古くは大阪湾の入江で住江(吉)(すみのえ)と呼ばれ,墨江(すみのえ)とも書かれた。またその港は墨江津,三津(みつ)といわれた。記紀によれば崇神天皇のころ,付近に依網(よさみ)池がつくられたとされ,古くから開けていたようである。古代には朝鮮半島との往来,遣唐船の出発地など海外交通の重要な港であり,また航海守護の神として知られる住吉大社が鎮座し,参詣する人々でにぎわった。淀川から流出する土砂のため,南北朝期ごろには港としての役割はなくなり,〈すみのえの野木の松原遠つ神わごおほきみのいでましどころ〉(《万葉集》巻三,角麿)とうたわれた住吉の面影もなくなった。後村上天皇がここに行在所(あんざいしよ)(住吉行宮(すみよしのあんぐう))をおき,南朝勢力の回復をはかったこともあるが,戦国時代以後しばしば戦場となり,とくに大坂夏の陣では住吉大社以外はすべて焼失した。江戸初期の作品と思われる《住吉祭礼図屛風》をみても,堺の華やかな町に対して住吉はいなかのように描かれ,住吉大社へ参拝する船主・商人などは多かったが,まだ村の域をでていなかったようである。
なお住吉(すみよし)/(すみのえ)は歌枕として著名で,ことに〈住吉の松〉を詠む歌は多く,また〈住吉の遠里小野(とおさとおの)〉〈住吉の浅沢小野〉〈住吉の忘れ草〉,そして〈住の江の岸による浪よるさへやゆめのかよひぢ人めよくらむ〉(《古今集》巻十二,藤原敏行)のように〈住吉の岸〉など,住吉にかかわって詠まれるものは数多い。平安後期以降,住吉神社は和歌の神としても崇敬されている。
→住吉大社
執筆者:尼見 清市
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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[系統と分布]
日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は,古典にみえる阿曇(あずみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で,中国南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界灘に達する経路をたどったと推定される。後者は,宗像(むなかた)系海人と呼ばれ,フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡,台湾,沖縄,奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼(とうしよ)を伝って南九州に達したと考えられ,古典にいう隼人(はやと)系に属する。…
…歌枕。大阪市住吉区に墨之江町の名が残る。《古事記》の仁徳天皇条に〈墨江(すみのえ)之津を定め……〉とある。…
※「住吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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