出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
歌人、国文学者。明治5年6月3日伊勢(いせ)国鈴鹿(すずか)郡石薬師村(三重県鈴鹿市石薬師町)に歌人・国学者弘綱(ひろつな)の長子として生まれた。1888年(明治21)16歳で東京帝国大学古典科卒業後、生涯民間にあって学者、歌人として世に重んじられた。学者としては歌学史、和歌史、歌謡史に新天地を拓(ひら)き、ことに『万葉集』は生涯の研究主題であり、近代における万葉学樹立はこの人によるところが多かった。研究は書誌的、文献的で、この方面の功績、編著も多く、武田祐吉(ゆうきち)、久松潜一らの協力を得た『校本万葉集』(1924~25)の完成は万葉研究に一時代を画した。また『万葉秘林』『南都秘笈(ひきゅう)』等30余種の古鈔本(こしょうほん)、古文書を自費で複製弘布(こうふ)した。また父弘綱と共編『日本歌学全書』12巻(1890~91)に続き、続12巻(1898~1900)を完成し、和歌文学のテキストを出版、学界に貢献した。
歌人としては、明治の短歌革新に際し竹柏会(ちくはくかい)を組織し機関誌『心の花』を創刊した(1898)。信綱は晩年静岡県熱海(あたみ)西山に隠栖(いんせい)、昭和38年12月2日没に至るまで、国文学研究と作歌を続けた。歌風は古典の正格から新風に移り、主情的である。門下三千といわれ、石榑千亦(いしくれちまた)、木下利玄(りげん)、川田順、片山広子(松村みね子)ら俊秀を出した。歌集は『思草』(1903)以下数種、『佐佐木信綱歌集』(1956)に収める。1934年(昭和9)学士院会員、1937年芸術院会員、第1回文化勲章受章。著述二百数十種、また童謡『雀(すずめ)』、唱歌『夏は来ぬ』『勇敢なる水兵』など多く世に歌われた。
[伊藤嘉夫]
ゆく秋の大和(やまと)の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
『『佐佐木信綱歌集』『佐佐木信綱文集』(1956・竹柏会)』▽『佐佐木信綱著『作歌八十二年』(1959・毎日新聞社)』▽『『明治文学全集63 佐佐木信綱他集』(1967・筑摩書房)』▽『佐佐木幸綱著『佐佐木信綱』(1982・桜楓社)』
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歌人,国文学者。三重県鈴鹿市に,歌人で国学者の弘綱の長男として生まれる。幼年より父の教えを受け,11歳で上京,東京大学古典科を卒業した。おりからの短歌革新運動の一翼を担い,1898年に雑誌《心の花》を創刊,主宰した。《思草》(1903),《新月》(1912),《豊旗雲》(1929),《山と水と》(1951)など12歌集があり,清新,端正な作風に特色がある。1905年から26年間,東大講師として《万葉集》,和歌史を担当。研究書に《歌学論叢》(1908),《日本歌学史》(1910),《和歌史の研究》(1915),《評釈万葉集》(1948-54)等があり,《校本万葉集》(1924)作成の中心人物でもあった。
執筆者:佐佐木 幸綱
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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