佐竹義和(読み)サタケヨシマサ

デジタル大辞泉 「佐竹義和」の意味・読み・例文・類語

さたけ‐よしまさ【佐竹義和】

[1775~1815]江戸後期の秋田藩主。号、泰峨。曙山長男天明の飢饉のあと、農業振興殖産興業を目指す藩政改革断行。藩校明道館(のち明徳館)を創設したことでも知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐竹義和」の意味・わかりやすい解説

佐竹義和
さたけよしまさ
(1775―1815)

江戸後期の大名。出羽(でわ)秋田藩9代藩主。8代義敦(よしあつ)の長子。幼名直丸(なおまる)、次郎。字(あざな)は子政。泰峨(たいか)、如不及斎(にょふきゅうさい)、日新斎、荷風亭(かふうてい)などの号がある。1785年(天明5)11歳で就封、のち従(じゅ)四位下侍従に任ぜられ、右京大夫を襲称した。当時秋田藩は農村疲弊と財政難の深刻化に悩んでいたので、まず知行借上げの上限を6割にまで強化し、やがて抜本的な大改革を断行した。藩校明道館(のち明徳館)と郷校設立による人材育成と教学刷新、農・林・鉱・工業にわたる殖産興業の推進を中核とし、職制の整備と人材の登用による政務の刷新などを主要な政策とするものであったが、義和の死没(41歳)によって十分な成果をあげえなかった。しかしこれによって養蚕漆器、織物などの諸産業の発展が促され、また藩校明徳館の影響も大きかった。なお義和は書画に優れているだけでなく、『東(あずま)の記』『千町田記』その他の紀行集も多く、文人大名としての名も高い。文化(ぶんか)12年7月国元で死没。

[半田市太郎]

『大久保鉄作編・刊『天樹院佐竹義和公』(1916)』

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改訂新版 世界大百科事典 「佐竹義和」の意味・わかりやすい解説

佐竹義和 (さたけよしまさ)
生没年:1775-1815(安永4-文化12)

江戸後期の秋田藩主。号は泰峨。義敦の子。1785年(天明5)11歳で9代藩主となる。有能な家臣を登用して藩政の立直しを実施した。92年(寛政4)産物方を設置して桑,楮(こうぞ),藍,蚕の生産を奨励し,中でも生糸の生産が高まって秋田畝織(うねおり),秋田八丈が生まれた。また95年に郡奉行を設けて勧農策,廃田再興策を実施した。1790年には後の藩校明徳館を設立し,多くの文人学者を集め育てた。みずからも書画をよくした。
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百科事典マイペディア 「佐竹義和」の意味・わかりやすい解説

佐竹義和【さたけよしまさ】

江戸後期の出羽(でわ)秋田藩主。危機的状況にあった藩政の改革を実施。知行借上げを強化しつつ,藩校設立による人材の育成・殖産興業策・勧農策・廃田再興策などを推進し,財政の立直しに成果を上げた。生糸の生産の向上により秋田畝織(うねおり)・秋田八丈が生まれた。
→関連項目明徳館

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朝日日本歴史人物事典 「佐竹義和」の解説

佐竹義和

没年:文化12.7.8(1815.8.12)
生年:安永4.1.1(1775.1.31)
江戸後期の大名。出羽国秋田藩9代目藩主,慢性化した農村の荒廃と財政難を克服するため,18世紀末ごろから「秋田藩における寛政の改革」と呼ばれる改革政治を実施。農村の復興や諸産業の振興などを目標とし,藩校明道館(のち明徳館)や郷校の設立による教育の振興,人材の育成で最も成果をあげた。米沢藩の上杉鷹山とならんで東北の名君のひとりにあげられるが,その政策の本質は,年貢徴収の基盤と藩の支配のしくみを立て直そうとするもので,民衆の側にたった改革政治ではなかった。<参考文献>『秋田県史』近世編上,秋田県教育委員会『御亀鑑』

(金森正也)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐竹義和」の解説

佐竹義和 さたけ-よしまさ

1775-1815 江戸時代後期の大名。
安永4年1月1日生まれ。佐竹義敦(よしあつ)の長男。天明5年出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩主佐竹家9代となる。天明の大飢饉で藩財政が窮乏していたため,農業振興や殖産興業につとめ,藩政の改革をおこなう。藩校明道館(のちの明徳館)や郷校を設立し,文人としても知られた。文化12年7月8日死去。41歳。号は日新斎,荷風亭など。著作に「東の記」「遠山ずり」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「佐竹義和」の解説

佐竹義和
さたけよしまさ

1775.1.1~1815.7.8

江戸後期の大名。出羽国秋田藩主。父は義敦。1785年(天明5)遺領相続。藩政は家老の疋田柳塘・松塘らに任せ,書画や鷹狩に没頭し,「阿山比川道ノ記」「遠山ずり」「東の記」などを著す。在世中,産物方・開発方・銅山方・絹方などが設置されて各種産業やそれらの基礎となる学問が奨励された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「佐竹義和」の解説

佐竹義和
さたけよしまさ

1775〜1815
江戸後期,秋田藩第9代の藩主
字 (あざな) は子政,号は泰峨・日新斎など。1785年11歳で襲封。のち右京大夫と称し従四位下侍従となった。天明の飢饉後,勧農政策・殖産興業の推進,職制の整備,人材登用,藩財政の整理,教学の刷新(藩校明道館と郷校の設立)など,藩政の改革を断行し,大いに成果をあげた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐竹義和」の意味・わかりやすい解説

佐竹義和
さたけよしまさ

[生]明和8(1771).江戸
[没]文化12(1815).7.8.
江戸時代後期,秋田藩9代藩主。天明5 (1785) 年7月父義敦の遺領出羽,下野のうち 20万石余を継ぎ,寛政の改革を推進して,中興の名君といわれた。

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367日誕生日大事典 「佐竹義和」の解説

佐竹義和 (さたけよしまさ)

生年月日:1775年1月1日
江戸時代後期の大名
1815年没

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世界大百科事典(旧版)内の佐竹義和の言及

【菅江真澄】より

…注目されるのは,文中に挿入されている彩色絵であり,対象物を正確に写生している点が評価されている。11年秋田藩主佐竹義和(さたけよしまさ)(1775‐1815)の依嘱を受け,出羽6郡の地誌作製に従事した。この地誌は,未完成に終わったが,約46巻にわたる大著であった。…

※「佐竹義和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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