保福寺(読み)ほうふくじ

日本歴史地名大系 「保福寺」の解説

保福寺
ほうふくじ

[現在地名]上野原町上野原

上野原市街地の北方にあり、安寧山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。「甲斐国志」によれば、永禄元年(一五五八)加藤丹後守景忠(法名傑叟道英居士)大檀那とし、巨摩郡宮沢みやざわ(現甲西町)深向しんこう院四世日州宗運を開山に請じて創建したと伝える。このとき景忠は田畑屋敷とも合せて六石九升余と山林を寄進したという(寺記)

保福寺
ほうふくじ

[現在地名]四賀村錦部 保福寺

保福寺町の対岸、保福寺山の麓にある。曹洞宗で、山号は永安山、本尊は千手観音。寺伝によると、文永五年(一二六八)鎌倉建長寺の開山大覚禅師(蘭渓道隆)開基。文亀二年(一五〇二)松本の小笠原氏の菩提寺である広沢こうたく(現松本市里山辺)の雪天正等和尚が中興してから同寺の末寺となり、のち武田晴信(信玄)の信濃侵略に際し兵火にかかりまた衰微したが、再中興されて今に至っている。

保福寺
ほふくじ

[現在地名]黒石市乙徳兵衛町

乙徳兵衛おつとくべえ町にあり、黒梵山と号し、曹洞宗。本尊釈迦牟尼仏。

寺伝によれば、慶安元年(一六四八)弘前隣松りんしよう寺の三世月寒雲鶴が、禅学に心を寄せるこの地の人々に請われ開山したという(新撰陸奥国誌)。黒石津軽家の菩提寺でもある。寛政二年(一七九〇)に改鋳されたこの寺の鐘の銘文(新撰陸奥国誌)によれば、明和三年(一七六六)の大地震で諸堂は灰燼に帰したという。封内事実秘苑(市立弘前図書館蔵)同年二月四日条に「焼失寺四ケ所。内一ケ所津軽左近領分」とある黒石領の一寺は保福寺である。

保福寺
ほうふくじ

[現在地名]松本市中山 埴原

高遠たかとお山の麓にあり、西面して中山丘陵に対している。

臨済宗妙心みようしん寺末。本尊は弥勒菩薩。寺伝によると、応永二二年(一四一五)僧証知が堂宇を建設、天文年間(一五三二―五五)僧信叔が中興している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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