修善寺町(読み)しゆぜんじちよう

日本歴史地名大系 「修善寺町」の解説

修善寺町
しゆぜんじちよう

面積:六九・四〇平方キロ

北伊豆を北流する狩野かの川中流域に位置し、北は沼津市・伊豆長岡いずながおか町・大仁おおひと町、東は中伊豆町、南は天城湯あまぎゆしま町、西は戸田へだ村に接する。同川と支流大見おおみ川・修善寺川流域に集落が広がる。縄文時代形成期と思われるいけもと遺跡や成熟期の大塚おおつか遺跡が存在する。池の本遺跡からはごく薄手の押型文土器などが発見され、古くから研究者に注目されていた。また大塚遺跡では敷石を敷いた方形の住居跡が発見され、祭祀の存在を想像させるような施設もあった。中世は狩野庄に含まれる地域が多かった。町域中央にある修禅しゆぜん寺は空海開創の寺と伝えられる。鎌倉幕府二代将軍源頼家が幽閉され暗殺された場所でもある。小立野こだちのには南北朝時代の山城である立野たちの(修禅寺城)があり、康安元年(一三六一)に関東執事畠山国清が鎌倉公方足利基氏に背いて立籠った。戦国時代には小田原北条氏の支配下に置かれ、伊勢宗瑞(北条早雲)修禅寺隆渓繁紹を招き曹洞宗開山とした。

近世は狩野川西岸域に点在する大沢おおさわ堀切ほりきり熊坂くまさか瓜生野うりゆうの・上修善寺・下修善寺は君沢くんたく郡、大見川の合流点以南の狩野川流域と東岸域は田方郡に属し、天保郷帳では一六村があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報