倉橋島村(読み)くらはしじまむら

日本歴史地名大系 「倉橋島村」の解説

倉橋島村
くらはしじまむら

[現在地名]倉橋

倉橋島のやや北寄りにある断層谷から南半を村域とし、南方海上の鹿島などの小島も含む。安芸国最南端にあたり、南は海を隔てて伊予国に続く。北は倉橋島北半東側を占める瀬戸島せとじま村、西側の渡子島とのこじま村に接する。全島、標高四〇〇メートル級の山が海岸まで迫り、「万島中飛郷ニ船通ひ多御座候」といわれた(明和二年「倉橋島指出帖」倉橋町役場蔵)

推古天皇二六年河辺臣某が安芸国に派遣されて船を造った話をはじめ、宝亀九年(七七八)一一月まで計七回、安芸国で海外渡航用の大船が造られた(日本書紀、続日本紀)が、倉橋島をその造船地に比定する説があり、「芸藩通志」は「此島今に至り盛に此業(造船業)を伝るを見れば、昔の船造も此地なるべし」と記す。ほん浦の北にそびえる(四〇八メートル)には船材になる大木が繁茂していたといわれ、南麓にあるだい神社は、伊勢国の人がここに来て大船を造った際、自国から勧請したとの伝えがある(芸藩通志)。当地はまた瀬戸内海航路の要地で、天平八年(七三六)遣新羅使も寄港した長門ながと(「万葉集」巻一五)とされる。

鎌倉時代末期と思われる摂渡荘目録(九条家文書)に「安芸国 舞人久世、為平等院舞装束料所知行之、倉橋庄 田廿六町二段四十歩」とあり、この頃当地は倉橋庄という摂関家領荘園で宇治平等院の舞装束料として舞人の久世なる者が知行していたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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