兵庫(読み)ひょうご

精選版 日本国語大辞典 「兵庫」の意味・読み・例文・類語

ひょう‐ご ヒャウ‥【兵庫】

[1] 〘名〙
① 兵器を納めておくくら。武器庫(ぶきぐら)。兵器庫。へいこ。
※続日本紀‐和銅四年(711)九月丙子「冝権立軍営守兵庫
② 「ひょうごりょう(兵庫寮)」の略。〔運歩色葉(1548)〕
※咄本・私可多咄(1671)四「女のかみのゆひやうは、みな名所の名におふといふ。まづ兵庫又は島田など、いづれも所の名じゃといふ」
[2]
[一] 兵庫県神戸市兵庫区の地名。奈良時代は大輪田泊(おおわだのとまり)、中世以降には兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた。現在は神戸港の一部となり、重工業が発達している。古名、務古水門(むこのみなと)。輪田泊。武庫。
[二] 神戸市の行政区の一つ。兵庫港付近の臨海地区は重工業地帯、北部は住宅地で、北西部に鵯越(ひよどりごえ)の地名がある。昭和八年(一九三三)成立。

へい‐こ【兵庫】

〘名〙 武器を納めておくためのくら。武庫。ひょうご。
公議所日誌‐一七・明治二年(1869)五月「兵仗を兵庫に蔵め」 〔呉越春秋‐闔閭内伝〕

つわもの‐ぐら つはもの‥【兵庫】

〘名〙 武器類を納めておく倉庫。武器庫。やぐら。〔十巻本和名抄(934頃)〕

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デジタル大辞泉 「兵庫」の意味・読み・例文・類語

ひょうご【兵庫】[地名]


近畿地方西部の県。かつての但馬たじま播磨はりま淡路の3国および摂津丹波2国の一部にあたる。県庁所在地神戸市。人口558.9万(2010)。
兵庫県神戸市中部の区名。工業地。また、その港湾地区。天然の良港で、古代は大輪田泊おおわだのとまりとして知られ、中世には兵庫津とよばれて繁栄。現在は兵庫港があり、神戸港の一部をなす。
兵庫髷ひょうごわげ」の略。

つわもの‐ぐら〔つはもの‐〕【庫】

武器を納めておくくら。兵器庫。〈和名抄

へい‐こ【兵庫】

武器をおさめておく倉。兵器庫。武庫。ひょうご。

ひょう‐ご〔ヒヤウ‐〕【兵庫】

兵器を納めておく倉。兵器庫。へいこ。

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改訂新版 世界大百科事典 「兵庫」の意味・わかりやすい解説

兵庫[県] (ひょうご)

基本情報
面積=8396.13km2(全国12位) 
人口(2010)=558万8133人(全国7位) 
人口密度(2010)=665.6人/km2(全国8位) 
市町村(2011.10)=29市12町0村 
県庁所在地=神戸市(人口=154万4200人) 
県花ノジギク 
県木クスノキ 
県鳥=コウノトリ

日本列島のほぼ中央部,近畿地方西部の県。東経135°の日本標準時の子午線が明石市を通り,北緯35°と東経135°の交差標識が西脇市にある。東は大阪府,京都府,西は岡山県,鳥取県に接し,北は日本海,南は淡路島を隔てて紀伊水道に面する。南北約170km,東西約110kmにわたり,本州では北端の青森県,西端の山口県を除けば,太平洋と日本海にまたがる唯一の県である。

兵庫県はかつての播磨国,但馬(たじま)国,淡路国の全域と摂津・丹波両国の一部にあたり,幕末には尼崎藩,三田(さんだ)藩,姫路藩明石藩竜野藩赤穂藩,三日月藩,三草藩,安志(あんじ)藩,小野藩,林田藩,篠山(ささやま)藩出石(いずし)藩,柏原(かいばら)藩,豊岡藩,村岡藩と天領,旗本領,飛地などが入り組んでいた。1868年(明治1)摂津の旧天領に兵庫裁判所(すぐに兵庫県となる)が設置され,播磨,但馬,丹波の旧幕府領には久美浜県が置かれた。生野にも但州府中裁判所が置かれ,すぐに久美浜県に編入されたが,69年再び分離されて生野県となった。また1868年福本藩が置かれたが,70年鳥取藩に併合された。71年の廃藩置県により兵庫,久美浜,生野の3県に加えて各藩もそれぞれ同名の県となった。同年11月の府県統廃合の際,但馬,丹後および丹波の多紀,氷上,天田の3郡は統合されて豊岡県となり,播磨地域では10県および生野県と兵庫県の一部を併合して姫路県(すぐに飾磨(しかま)県と改称)が置かれた。また摂津でも兵庫県に尼崎県,三田県,豊崎県が新たに編入された。その後76年兵庫県,飾磨県,豊岡県(丹後および丹波天田郡は除く)の3県と名東(みようどう)県から分離された淡路島が統合されて,現在の県域が確定した。

先土器時代の遺跡には,太島(ふとんじま)遺跡(姫路市)がある。組合せ石器用とみられる切出し形の細石器からなる井島Ⅰ群石器の単純遺跡である。縄文時代では大歳山(おおとしやま)遺跡が前期末の東海,近畿,中国,四国に分布する特殊突帯文土器を主とする大歳山式土器の標式遺跡である。ここには弥生時代の集落址と後期古墳もあったが,1968年調査途中で開発が強行され,大部分未調査のまま宅地化された。日笠山貝塚(高砂市)は縄文前期~晩期の遺跡で,中心は中・後期である。晩期の滋賀里期かと思われる男性人骨1体が出土している。

 弥生時代では,田能(たのう)遺跡(尼崎市)が標高6mの低地に立地し,前期から古墳時代前期にかけての集落址と,弥生中期から古墳時代初期の墓地址からなる。集落址は円形竪穴住居址,平地住居址高床住居や倉庫と思われる柱穴,流水溝,塵芥処理用土壙など,墓地では方形周溝墓,組合せ式木棺墓,土壙墓,小児用壺,甕棺墓などがあり,銅剣鋳型も出土している。奈カリ与遺跡(三田市)は中期後半の高地性集落址で井戸も調査されている。会下山(えげのやま)遺跡(芦屋市)も中・後期の高地性集落址。住居址,祭祀場址などからなる。加茂遺跡(川西市)も中・後期の集落址で,住居址,方形周溝墓,壺棺墓のほか石器製作址もある。大中(おおなか)遺跡(加古郡播磨町)は弥生後期と古墳時代前期の集落址。弥生後期の円形,扇形,六角形の住居址がある。小孔をあけた内行花文鏡片の出土が注目される。桜ヶ丘遺跡(神戸市灘区)では銅鐸と銅戈とが伴出した。

 古墳時代では,池上口ノ池遺跡(神戸市西区)が台地上に営まれた古墳時代初頭の集落で,焼失住居が多いことが注目される。万籟山(ばんらいさん)古墳(宝塚市),求女塚(もとめづか)古墳(神戸市東灘区,灘区)は前方後円墳,森尾古墳(豊岡市)は楕円形で,いずれも4世紀代の古墳である。五色塚古墳(神戸市垂水区)は4世紀末の前方後円墳。西野山古墳(赤穂郡上郡町)は京都府久津川車塚古墳出土鏡と同笵の三角縁四神四獣鏡が出土した5世紀前半の円墳。雲部車塚古墳(篠山市。車塚古墳)は県東部における5世紀半ばの大型前方後円墳として著名。西条古墳群(加古川市)は多くは5~6世紀の方墳と円墳30数基からなる。この中には石室状石組中から内行花文鏡や鉄剣(戈 ? )が弥生終末期の土器と伴出した例もあり注目された。焼山(やけやま)古墳群(小野市)は6世紀代を中心とする帆立貝式小型前方後円墳と円墳約90基からなる。墳丘に2個以上の木棺を直葬するものが多い。歴史時代では,7世紀後半(白鳳時代)の伊丹廃寺(伊丹市)や平安時代末の須恵器の登窯群からなる緑ヶ丘古窯址群(相生市)などがある。
淡路国 →摂津国 →但馬国 →丹波国 →播磨国
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山陽・山陰両道が貫く兵庫県は,古代から畿内と西国を結ぶ回廊の役割を果たし,淡路島との間の明石海峡は畿内と畿外をくぎる境界とされた。また奈良時代以後,神戸港の前身の大輪田泊(おおわだのとまり)が畿内の西の玄関口として栄えた。西日本から攻めのぼる軍勢もこの地で決戦することが多く,源平が争った一ノ谷の戦,官軍と足利軍が激突した湊川の戦などがその例である。江戸時代中期になると灘の酒,兵庫の海運,姫路の木綿,赤穂の製塩,但馬の養蚕・製糸など各地に特色のある産業が興り,生野銀山,多田銀山などの開発も進んだ。明治初期の兵庫県の人口は137万で,面積,人口とも西日本有数の大県となったが,このように県域を広くとったのは開港場神戸を控え県力の充実を図ったことに由来する。開港時一寒村にすぎなかった神戸はその後急速に発達し,1889年の市制施行時に人口は13万に増え,横浜と並ぶ日本の二大貿易港としての地位を確立した。一方,陸上交通も大阪~神戸間の鉄道が1874年に営業を開始し,89年に東海道本線が全通した。また民営の山陽鉄道(後の山陽本線)が,88年に兵庫~明石間を結び,1901年には下関まで全通した。山陰本線の整備はかなり遅れたが,12年に県下全線が開通した。さらに昭和40年代半ば以降山陽新幹線と中国自動車道が開通し,98年4月には明石海峡大橋が完成して東西の回廊的役割はいっそう強化されている。

県域の8割以上を丹波高地の一部,播但(ばんたん)山地,六甲山地などの山地,丘陵地が占め,まとまった平野は播磨灘沿岸に播磨平野,大阪湾沿岸に大阪平野の一部があるにすぎず,日本海側には平野は発達していない。しかし,鳥取県境に氷ノ山(ひようのせん)(1510m)など標高1000mをこえる山が連なるほかは脊梁山地に当たる高い山脈はなく,播但山地を横切る生野峠,遠阪峠も標高350m内外と低い。また瀬戸内海に注ぐ加古川と日本海に流れる由良川の分水界は氷上(ひかみ)盆地の石生(いそう)にあるが,その標高は94.5mと本州の分水界で最も低く,南北の交通を妨げる自然の障害は少なかった。しかし気候的には,山陽側が瀬戸内式気候区に属し,年降水量は1100~1200mmであるのに対し,山陰側が日本海岸気候区に属し,年降水量2600~2700mmと対照的である。とくに冬季の地域差が著しく,日本海側の山間部は近畿地方で最大の多雪地帯をなし,スキー場が多いのに対し,播磨灘沿岸は晴天が多く,灌漑用の溜池が発達し,かつては赤穂塩田に代表されるように製塩が盛んな地域であった。1月の日最低気温の平均値では,県内で最も暖かくスイセンが花盛りの淡路島南部と,最も寒い播磨地域北部の山間盆地とでは,その差が6℃にも達する。夏季の気温の地域差は少なく,山地以外は暑さが厳しい。揖保(いぼ)川,市川,加古川などが形成する肥沃な播磨平野は県最大の穀倉地帯をなすが,平地の乏しい淡路島では耕して天に至る棚田が発達している。尼崎市から姫路市に至る沿岸部は人口密度の高いひとつづきの大都市地域となっているが,県内には過疎地域,豪雪地域,離島地域に指定される地域が多く,自然条件や交通条件に恵まれない僻地も多い。

 このように兵庫県は瀬戸内海側と日本海側,平野と山地,過密と過疎の対比が複雑で,しばしば日本の縮図といわれる。また畿内に属する摂津の西半,山陽道に属する播磨,山陰道に属する丹波の一部と但馬,南海道に属する淡路を合わせて1県とした不自然な成立ちのゆえに県としてのまとまりが弱い。このため,産業の発展と地域の変容については各地域ごとにみていくことにする。

(1)神戸・阪神地域 かつての摂津国の一部にあたる。大阪平野の一部以外は六甲山地,北摂山地などの山地,丘陵からなり,ここには神戸市を中心に芦屋,西宮,尼崎,伊丹,宝塚,川西,三田の8市と川辺郡猪名川町が含まれ,人口の合計は約300万(1995)に達する。大阪府の西に隣接してその影響を強く受けてきた地域で,県全体の1割の面積に6割近い人口が集中し,県の政治・経済・文化の中心をなしている。現在の都市のうち近世までは城下町の尼崎,宿場町・門前町の西宮,港町の兵庫だけが都市的要素をもつにすぎなかったが,開港を契機に神戸港には海運・貿易関係の機能が発達し,明治20年代後半には全国一の貿易港となった。他方,神戸には1886年官営造船所が払い下げられて川崎造船所が発足し,のちの重工業化のさきがけとなった。しかし,最も早く栄えたのは明治10年代に始められたマッチ製造業で,第1次大戦後には世界市場でも屈指の産額をあげていた。重工業部門では第1次大戦の好況期に造船,機械などが発展し,その生産は軽工業部門を圧倒するようになった。神戸市以外の阪神地域の工業化は,大正末~昭和初期に尼崎市の臨海埋立地へ大阪市から鉄鋼などの大工場が進出したのに始まり,その後工業化が内陸へ広がった。一方,西宮・芦屋両市は阪神,阪急など郊外電鉄の発達に伴って大阪市の衛星都市として整備され,昭和10年代にこの地域の沿岸部一帯の市街地化はほぼ完了した。

 第2次大戦の戦災で市街地の多くは壊滅的打撃をうけたが,高度経済成長期には急速に宅地化が拡大した。とくに六甲山が背後に迫る神戸市では,山を削って住宅団地を建設する一方,海面を埋め立てて港湾や工業用地を造成する工事が大規模に行われ,埋立地に製鉄所や輸入食料品の加工工場などが立地した。一方,沖合に1966年に着工し81年完成した人工島ポートアイランド(436ha)と,ほぼ10年遅れて着工した六甲アイランド(480ha)は,日本最大のコンテナー埠頭や住宅団地,ホテル,ビジネス地区もある海上都市となっている。しかし,これまで神戸市の繁栄を支えてきた港湾に関係の深い産業は,素材産業や海運の不況などの影響で衰え,先端技術産業やファッション産業の育成など新しい分野への転進が課題となっている。神戸の東に隣接する芦屋は日本を代表する住宅都市で,良好な住宅地はさらに東の西宮,北の宝塚まで広がり,最近では川西や三田の市街化が著しい。

(2)播磨地域 かつての播磨国にほぼ相当する。播磨平野と播但山地南半部からなり,県面積の4割を占めている。姫路市を中心に,明石,相生(あいおい),加古川,たつの,赤穂,西脇,三木,高砂,小野,加西(かさい),加東の12市と周辺の町が含まれ,人口の合計は約190万(1995)で,県全体の1/3を占める。この地域は山陽道の要地にあたり,江戸時代には東から明石,姫路,竜野,赤穂の城下町が発達し,高砂,飾磨(しかま),室津などは港町として著名であった。播磨平野は,近世には河川改修,新田開発が進んで穀倉地帯となったが,平野東部の加古川左岸は水に恵まれず,古くから溜池の多い地域である。内陸の三木,小野,西脇,加西などの都市は近世以来農産物の集散や地場産業で栄え,現在も東播の加古川中流域の播州織物,刃物,釣針,そろばん,こいのぼりなど,西播のたつの市のしょうゆ,そうめん,姫路市の皮革など特色ある伝統産業が立地している。また近代工業は,明石市から姫路市に至る海岸線が埋め立てられて製鉄,石油精製などの大工場が立地している。この地域では1937年日本最初の本格的な消費地立地型の製鉄所が姫路市広畑に建設されたのを契機に重化学工業化が進み,高度経済度成長期には工業整備特別地域に指定されて一段と発展した。昭和40年代半ば以降,中国自動車道の開通などにより,内陸部でも工業団地や学園都市の開発が進んでいる。

(3)丹波地域 かつての丹波国の一部に相当する。丹波高地南半部からなり,篠山(ささやま),氷上などの小盆地や竹田川などの河谷によって分断されたこの地域は古くから酒造りの杜氏(とうじ)の出稼ぎで知られてきた。篠山・丹波両市の全域が含まれ,面積は県域の1割を占めるが,人口は11.9万(1995)で2%にすぎない。民謡《デカンショ節》で名高い中心の篠山市の旧篠山町は山陰道の要地で近世には青山氏6万石の城下町であったが,後背地が狭く,1899年開通の阪鶴鉄道(現,福知山線)からもはずれて市に昇格しておらず,城下町の面影をよくとどめている。南西端の同市の旧今田(こんだ)町には瀬戸,常滑(とこなめ),備前などと並ぶ古陶丹波立杭(たちくい)焼の特産がある。

(4)但馬地域 かつての但馬国にほぼ相当する。播但山地北半部からなり,豊岡,養父(やぶ),朝来(あさご)の3市ほか周辺の町が含まれる。面積は県域の1/4を占めるが,人口は約20万(1995)で4%にすぎない。円山(まるやま)川下流の豊岡盆地は古くから但馬の穀倉であるとともにこの地域の行政・文化の中心をなしてきた。江戸時代,豊岡,出石はともに3万石の城下町として栄えたが,明治末以降,山陰本線の主要駅となった豊岡と鉄道を拒否した出石との差がしだいに開いた。積雪の多いこの地方で近世以来盛んであった柳行李の生産は第2次大戦後衰えたが,これに代わった豊岡市のビニルかばんは全国最大の産地である。海岸部は山陰海岸国立公園に指定され,温泉,スキー場など観光資源が多い。

(5)淡路地域 大阪湾と播磨灘を分ける位置にある淡路島は,津名丘陵と諭鶴羽(ゆづるは)山地,洲本平野(三原平野)からなり,洲本,淡路,南あわじの3市が含まれる。面積は県の7%,人口は約16万で3%を占める。中心の洲本市は近世,徳島藩稲田氏の城下町だったところで,明治以降も島の中心をなしている。全体として平地が乏しく用水が不足しがちであるが,棚田による米作や,戦後発展した花卉,果樹の栽培,酪農など大阪市場指向型の先進的農業地帯となっている。

1995年1月17日未明,明石海峡の海底を震源とする直下型地震が発生し,淡路島北部および神戸市須磨区東部から西宮市に至る南北2km,東西20kmの震災の帯とよばれる震度7の地域を中心に死者約6500,家屋全半壊20万棟,被害総額約10兆円という未曾有の災害を招いた。この現代大都市を直撃した日本ではじめての地震によって,高速道路の倒壊やライフラインの途絶など災害に対する大都市のもろさや危機管理体制の不備が問われたが,同時にコミュニティの結びつきやボランティアの重要性などへの認識が高まった。震災後約2年で産業基盤や都市の基盤となる交通,通信,電気,上下水道などの復興はほぼ終わったが,人口や地場産業の回復は容易ではない。
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兵庫 (ひょうご)

神戸市兵庫区の兵庫港を中心とする地域の呼称。中世には兵庫三箇荘があって,港には兵庫南北両関が置かれた。兵庫の名は古代には見えないが,《平家物語》巻九〈樋口被討罰〉に,四国の屋島から攻め上った平家の軍勢が,福原の旧都に居住し西は一ノ谷に城郭を構え,東は生田の森を大手の木戸口とし,その間の〈福原,兵庫,板宿(いたやど),須磨〉に10万余騎でこもったとある。南北朝期の《太平記》や《梅松論》では〈兵庫〉〈兵庫島〉の名は要港としても戦場としてもしばしば登場し,楠木正成が戦死した湊川の戦の主戦場も兵庫・湊川一帯であった。兵庫とは,元来,兵仗武器を収める庫のことだから,ここにそのような武器庫があったことから兵庫の名がおこったと考えられるが,その確証がないままに古代の務古水門(むこのみなと)との関連を説くものもある。務古水門は武庫川河口の港らしく,したがって武庫と兵庫とは別と考えるべきであろう。兵庫三箇荘を喜田貞吉は妙法寺川に沿って上・中・下3荘が並んでいたと考えたが,福原荘,輪田荘と入り組みながら東から西へ上・中・下3荘が並んでいたらしく,西には須磨荘があった。その範囲は兵庫区,北区を中心に長田区の一部を含む地域らしい。
執筆者: 織田信長のもとで摂津の大名となった荒木村重が信長に反して没落したあと,1580年(天正8)村重討伐に功があった池田恒興に摂津の〈諸所多く〉とともに,兵庫津が与えられた。恒興は兵庫の地に一城を構え,城の周りに溝渠(こうきよ)を,町の外郭に惣構の都賀堤(とがのつつみ)を築いた。近世にはこの都賀堤に囲まれた内側の町場が地子方(じしかた),外方が兵庫地方(じかた)といわれた。前者は町屋の地区で,岡方と海に面した北浜,南浜の3地区(三方(さんぽう))に分かれており,後者は田園地帯であった。1617年(元和3)以来尼崎藩領となったが,150年を経て1769年(明和6)幕府領となり,そのまま明治に至った。古い都市だけに1605年(慶長10)には町数はすでに39町1村を数え,1788年(天明8)には43町1村,以後は1町増えただけで明治に至った。人口は享保年間(1716-36)1万9766人,1769年2万1912人,1864年(元治1)1万9556人であった。近世,この町の岡方地区は東の西宮駅と西の明石駅(大蔵谷)を結ぶ西国街道(中国路)の宿場町であり,本陣,問屋場があった。神戸(こうべ)村方向から南下した西国街道は,湊川を渡ってまもなく湊口惣門から市中に入り,いわゆる本町筋を通って札場がある南仲町に至り,その四つ角から西方に折れて柳原口惣門に至り,町を出はずれて農地の中を須磨,明石へと向かったのである。

 町の海辺は湊川河口から和田岬までわずかに湾状をなし,佐比江,築島舟入江,須佐之入江などの入江があった。この海辺の北浜・南浜地区は西日本の経済的発展と,北前船さらには松前航路の開拓によって,物資集散の港町として繁栄した。延宝(1673-81)ころには穀物仲買125株,干鰯(ほしか)仲買54株をはじめとする多くの問屋があり,幕府領となった1769年以降も諸問屋仲間121株,穀物仲買121株,干鰯仲買54株,干魚塩魚仲買70株などの問屋仲買株が見られ,商業取引の盛況をうかがわせる。この港町としての繁栄の中で,街道の本陣とは別に,海上交通にかかわる浜本陣が南浜地区に生まれたことが特筆される。西国大名たちの蔵米(くらまい)や国産物を売買する御用達(ごようたし)をつとめる問屋が,取引のある大名やその藩地から来る船頭らを宿泊させる業務をつとめたものである。久留米藩,府内藩の浜本陣は壺屋喜右衛門,臼杵藩のそれは網屋三太夫,松山藩は網屋佐左衛門というふうに,17藩の浜本陣があった。寛文年間(1661-73)には4軒であったが,明和年間には10軒となっており,1862年(文久2)には8軒を数えた。池田恒興が築いた城の地域は尼崎藩領時代には陣屋となった。幕府領になると,ここに大坂奉行所所属の勤番所が置かれたが,1868年(明治1)正月には維新政府のもとで兵庫鎮台,2月に兵庫裁判所が置かれた。次いで5月には兵庫県庁が置かれた。敷地が狭いため,県庁は9月には早くも神戸村に近い坂本村に移った。68年1月1日(慶応3年12月7日)神戸開港とともに都心は神戸に移ったわけで,兵庫は取り残されて〈神戸の兵庫〉に甘んじなければならなくなった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「兵庫」の意味・わかりやすい解説

兵庫
ひょうご

兵庫県神戸市のほぼ中央にある兵庫区の港湾部。和田岬に抱かれた古くからの天然の良港で、奈良、平安時代は摂播五泊の一つ大輪田泊(おおわだのとまり)として知られた。港の北方、会下山麓(えげさんろく)一帯は平氏の福原荘(ふくはらのしょう)で、この地に別業をもつ平清盛(きよもり)は港を重視し、経ヶ島を築造するなどして宋船(そうせん)も出入りできる要港にした。一時福原に都が置かれたのも、清盛が港に着目したためである。室町初期に八部(やたべ)郡の郡家周辺の集落が南に延び、港と結ばれて兵庫の町が形成された。中世には兵庫津とよばれ畿内(きない)の重要港であった。浜本陣が置かれ西国街道も迂回(うかい)してここを通過した。江戸時代は大坂の外港として西廻(にしまわり)海運の中心であり、人口約2万人の町が形成された。1858年(安政5)兵庫港の開港が決まったが、生田(いくた)川尻(じり)の神戸浦に新港が設置(1867年開港)され、以来、繁栄を奪われ、内国貿易中心の港となった。一方、港湾背後の沖積地には、明治以降、鐘紡(かねぼう)(のちカネボウ)、三菱(みつびし)造船(現、三菱重工業)、川崎車輛(しゃりょう)(現、川崎重工業)、三菱電機、川崎造船(現、川崎重工業)などの大工場が進出した。現在、神戸市の工業の中心地となっている。JR山陽本線が通じ、兵庫駅から和田岬線を分岐する。そのほか、市営地下鉄海岸線、国道2号などが通じている。

[藤岡ひろ子]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「兵庫」の解説

兵庫
ひょうご

神戸市の地名。古代は摂津国八部(やたべ)郡に属した。行基(ぎょうき)が整備した摂播五泊の一つ大輪田泊(おおわだのとまり)。平安末期に平清盛が経ケ島を築造し,鎌倉時代に重源(ちょうげん)が修復して日宋・日明貿易の拠点となった。中世は西国物産の中継地で兵庫関がおかれ,応仁・文明の乱で軍事拠点となったため日明貿易は堺に移り荒廃した。近世は西廻海運の中継地として栄えたが,兵庫開港の際,居留地造成の余地がなかったため神戸港がこれにかわった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「兵庫」の解説

兵庫
ひょうご

摂津国の港町で,現在の神戸港西部にあたる
『平家物語』に大輪田泊とみえる。別名兵庫島とも呼ばれ,日宋貿易のために平清盛が大規模な築港を行った。室町時代,勘合貿易の拠点となる。戦国時代には堺に繁栄を奪われたが,豊臣秀吉および江戸幕府の直轄地(幕領は1769年)となってから再び繁栄。近世西廻り航路の要港となり,1867年開港。

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普及版 字通 「兵庫」の読み・字形・画数・意味

【兵庫】へいこ

武庫。

字通「兵」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の兵庫の言及

【米問屋】より

…1729年にはその商域などにより,下り米問屋・関東米穀三組問屋・地廻米穀問屋の3種に区分された。下り米問屋は東海地方以西の57ヵ国からの下り米を引き受ける問屋で,この下り米の多くは大坂や兵庫などの上方諸都市を経由して回送されたものであった。関東米穀三組問屋は関八州と陸奥の9ヵ国からの商人米を担当し,堀江町・小網町一丁目・小舟町の河岸の3町に居住する米問屋が所属した。…

【ナタネ(菜種)】より

…これらの事実から,ナタネないしその加工品たる水油の,全国的商品としての位置の高さが察せられる。大坂に積み登されるナタネは,17世紀には大坂島之内の人力絞り油屋で絞られていたが,18世紀に入ると,瀬戸内海を東上するナタネを,灘目,兵庫で買い取って,六甲山系の川々に建設された水車によって絞る絞り油業の展開がみられた。1743年(寛保3)ごろにはナタネは大坂へ20万石,灘目,兵庫へ18万~19万石が登されていたとする史料があるから,18世紀初めころから急速に灘目の水車絞り油業が台頭し,大坂の人力絞り油業に迫るに至ったことがわかる。…

※「兵庫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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