( 1 )①の挙例「万葉‐一六一」の「向南山」を、吉野山・香具山などの特定の山をさすとする説もあるが不詳。
( 2 )平安時代には、②のように山城国愛宕郡(現在の左京区岩倉あたり)と、葛野郡から愛宕郡にかけて(現在の北区紫野から衣笠・鷹ケ峰を含む一帯)の二箇所をさした。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山県東端,東牟婁(ひがしむろ)郡の村。人口486(2010)。熊野川上流の北山川北岸に位置し,三重・奈良両県にはさまれた飛地である。村域の大部分が山林で,北山川に沿って大沼を中心とする5集落が点在する。古くから熊野杉の産地で,木材の搬出はすべて北山川をいかだ流ししていたため,熊野川河口の新宮とのつながりが深く,1871年(明治4)牟婁郡が和歌山県と度会(わたらい)県(現,三重県)に分かれた時に飛地のまま和歌山県に編入された。住民の大部分は山林労務といかだ流しに従事していたが,1963年から電源開発によるダム建設が始まり,いかだ流しは消えた。北山川の峡谷は瀞峡(どろきよう)(瀞八丁)の奥瀞七色峡として自然美を呈していたが,65年の七色ダム,翌66年の小森ダム完成後,湖水と化した。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
14~15世紀に沖縄本島北部に成立した王権。居城は今帰仁(なきじん)城。中国の史書は山北と記す。中山,南山に続いて1383年怕尼芝(はにし)が明太祖の冊封をうけ,琉球国山北王となった。中国への進貢貿易を展開したが,三山の中で進貢回数などは最下位であった。1416年攀安知(はんあんち)のとき,中山に攻め滅ぼされた。滅亡年については1420年頃とする説もある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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