千利休(せんのりきゅう)(読み)せんのりきゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

千利休(せんのりきゅう)
せんのりきゅう
(1522―1591)

安土(あづち)桃山時代の茶人。本姓は田中。千は通称、ただし子孫はこれを本姓とした。初名与四郎。宗易(そうえき)、利休と号す。与兵衛の子として堺(さかい)(大阪府)今市(いまいち)町に生まれたが、茶の湯を好み、初め北向道陳(きたむきどうちん)、ついで武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。1568年(永禄11)織田信長が上洛(じょうらく)し、堺に矢銭2万貫を課した際、和平派として信長に近づいた今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうきゅう)と親しく、永禄(えいろく)末年から元亀(げんき)・天正(てんしょう)初年の間に、ともに信長の茶頭(さどう)となった。82年(天正10)6月、本能寺の変で信長横死後は秀吉に仕えたが、当初よりその言動には一介の茶頭の立場を超えるものがあった。子の道安(どうあん)や女婿(じょせい)の万代屋宗安(もずやそうあん)も茶頭となっている。86年4月上坂した豊後(ぶんご)の大友宗麟(そうりん)は、利休の印象を、国元への手紙のなかで「宗易ならでは関白様(秀吉)へ一言も申上ぐる人これ無しと見及び候」と述べている。秀吉が関白になった記念に催した85年10月の禁中茶会では、初めて利休の名で出席し秀吉を後見、以後この居士(こじ)号を用いるようになる。87年10月の北野大茶湯(おおちゃのゆ)には宗及・宗久とともに奉仕したが、中心になってこれを推進した。89年、亡父五十年忌のため大檀那(おおだんな)として大徳寺山門上層を増築し、暮れには完成したが、その際自分の木像を楼上に安置したことが、のちに賜死一因とされた。90年、秀吉の小田原征伐に従い、勘責されて浪々の身であった、同じ茶頭の山上宗二(やまのうえそうじ)を秀吉に引き合わせたが、またまた勘気を被り、殺されるということがあった。利休自身も、帰洛(きらく)後の言動には不安定な点が看取される。明けて91年正月、よき理解者であった秀長(秀吉の異父弟)の病死がきっかけで利休処罰の動きが表面化し、2月13日堺へ下向、蟄居(ちっきょ)を命ぜられている。旬日を置いてふたたび上洛、28日聚楽(じゅらく)屋敷で自刃した。享年70歳。山門木像の件と、不当な高値で茶器を売買したことが表向きの罪状であるが、側近としての政治的言動が下剋上(げこくじょう)のふるまいとみなされ、これが秀吉部将間の対立のなかで死を招いたものと考えられる。「人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這宝剣(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつともにころす)、提(ひっさぐ)る我得具足(わがえぐそく)の一太刀(ひとつたち)今此時(いまこのとき)ぞ天に抛(なげうつ)」が辞世であった。墓は大徳寺本坊方丈裏、同聚光院墓地にある。

 茶の湯の面では、秀吉時代になって独自性を打ち出し、それまでの四畳半にかわる二畳、一畳半といった小間(こま)の茶室と、それにふさわしい茶法を創案した。山崎の妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)(二畳)は、1582年秀吉の命を受けて利休がつくったものとされる。茶陶についても、86年ころには、いわゆる宗易型茶碗(ちゃわん)を完成、その美意識は黒楽(くろらく)茶碗に結実している。利休が茶の湯の大成者とされるのは、身辺にある雑器を道具に取り上げるなど、茶の湯のもつ日常性を追求する一方、小間の茶室にみるような、茶の湯の非日常的な求道(ぐどう)性を追求し、茶の湯の限界を窮めたところにあったといえよう。利休七哲は、武門を中心とする利休の高弟たちのことをいい、慶長(けいちょう)初年にはその1人、古田織部(ふるたおりべ)が茶湯名人の称を得ている。千家の家督、利休の茶統は、後妻宗恩の連れ子少庵(しょうあん)(妻は利休の娘亀女)とその子宗旦(そうたん)へと受け継がれ、宗旦の子のとき三千家に分流した。なお、没後から利休回帰が進んだが、ことに百回忌にあたる1690年(元禄3)に向けて高揚し、茶聖化の傾向も現れている。

[村井康彦]

『村井康彦編『千利休』(『茶道聚錦三』1983 ・小学館)』

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