日中戦争当時の1937年12月に中国国民政府の首都、南京を占領した旧日本軍が中国軍の敗残兵や捕虜、一般市民を多数殺害した事件。女性暴行や略奪も頻発したとされる。「南京大虐殺」とも呼ばれ、犠牲者数は中国では「30万人以上」が定説。数万人から20万人まで諸説ある日本との間で論争が繰り返されてきた。日本側には事件自体を否定する研究者もいる。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為があったことは否定できない」(外務省)との見解を示している。
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1913年、27年、37年の3回、中国の南京で起こった日中関係事件。(1)1913年(大正2)7月、中国で袁世凱(えんせいがい)政権打倒の第二革命が起きたが失敗、9月1日、北軍(袁軍)は南京を奪取した。そのとき張勲(ちょうくん)の軍隊が在留日本人3名を殺害し、居留民の家屋を略奪した事件。8月5日の兗州(えんしゅう)および11日の漢口(かんこう)における日本人将校監禁事件に続く南京における虐殺事件の突発で、国内では対中強硬論が沸騰した。第一次山本権兵衛(ごんべえ)内閣は対中政策の軟弱さを非難され、9月5日には、阿部守太郎(あべもりたろう)外務省政務局長刺殺事件まで起こった。日本政府は陸戦隊を上陸させて示威し、10日、三事件について正式に抗議、翌日、事件関係将兵の処罰、張勲の江蘇都督(こうそととく)免職、賠償などを要求した。13日、中国政府は日本側の三事件に関する要求全部の承認を回答、同日書面をもって確認し、事件は解決をみた。(2)1927年(昭和2)3月24日、北伐の中国国民革命軍(第二軍・第六軍)が南京に入城したとき、一部の軍民が日本その他各国領事館、住宅、アメリカ系大学などを襲撃し、外国人に対し略奪・暴行を働いた事件。この事件でアメリカ人の金陵(きんりょう)大学副総長および日本兵1名を含む外国人6名が殺害され、日本海軍大尉1名が責任をとって自殺した。揚子江(ようすこう)上のイギリスとアメリカの軍艦は報復として城内を砲撃し、多数の中国軍民を殺傷した。外国側は国民政府に謝罪と賠償を要求する共同声明を発したが、交渉は各国別に行われた。若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣は、事件の責任が共産党側にあるとした蒋介石(しょうかいせき)の主張を支持して、蒋を擁護したため、諸外国に比べてその対中処置が軟弱であると非難され、これに金融恐慌突発事件が重なって、4月17日総辞職した。かわって田中義一(ぎいち)内閣が成立したが、国民党政府との関係が悪化したため、諸外国に遅れてようやく29年5月に至り、問題の解決をみた。(3)別項「南京大虐殺」を参照。
[洞 富雄]
『栗原健編『対満蒙政策史の一面』(1966・原書房)』▽『中支被難者連合会編『南京漢口事件真相』(1927・岡田日栄堂)』
中国,南京市で起こった事件。1913,27,37年の三つの事件をさす。
(1)1913年7月,反袁世凱の第二革命が起こったが,9月袁軍の南京占領によって失敗に終わった。その過程で山東省兗州(えんしゆう),湖北省漢口で,袁軍による日本将校拘禁事件がおき,ついで9月1日には南京で日本人3人が殺害され,日本人の家屋が略奪をうける事件がおきた。一連の事件について,時の山本権兵衛内閣の対華軟弱外交が非難され,9月5日には外務省阿部守太郎政務局長が暗殺された。牧野伸顕外相は9月10日山座円次郎駐華公使に対し,3事件に関し抗議するとともに,処罰,陳謝,賠償などの要求提出を訓令,13日,中国政府はそのすべてを承認すると回答し,一応の解決を見た。満蒙五鉄道の敷設権を日本が獲得したのは,この直後である。
(2)1927年3月24日,第1次国共合作下の国民革命軍が南京に入城したが,その際,日本,イギリス,アメリカなどの領事館が襲撃され,アメリカ,イギリスの軍艦が城内に威嚇砲撃を加えた事件。4月11日,日本,イギリス,アメリカ,フランス,イタリアの5ヵ国外交団は責任者の処罰,将来の保障,被害の賠償などを要求する同文通牒を提出した。蔣介石は,事件は共産分子により引きおこされたとして,翌12日,反共クーデタを行い(四・一二クーデタ),列強とは対外協調方針によって解決につとめた。翌年3月,アメリカとの妥結についで,イギリス,イタリア,フランスも解決したが,日本との間で解決に関する文書が交わされたのは29年5月のことである。
(3)1937年12月の日本軍の南京占領時の虐殺事件を指すこともある(南京大虐殺)。
執筆者:田中 宏
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①〔1927〕1927年3月24日,南京で起きた暴動に端を発した国際的事件。中国共産党指導下の国民革命軍は,北方の軍閥軍を破り南京を占領。軍閥軍は敗走するが,その際大衆も加わりイギリス,アメリカなどの領事館,居留地を襲撃,略奪。イギリス,アメリカなどは居留民保護を理由に南京城内を砲撃。中国側に2000人あまりの死傷者を出した。イギリス,アメリカなどはその後,蒋介石(しょうかいせき)に大衆暴動の鎮圧を要請。日本は幣原(しではら)外交の内政不干渉主義により砲撃には加わらなかったが,事後処理ではイギリス,アメリカに同調した。蒋は事件の背後に共産党の扇動があったとし,これ以上の諸外国との対立はかえって列強の軍事侵攻を増長させると判断し,四・一二クーデタに踏み切った。
②〔1937〕南京大虐殺ともいう。日中戦争初期に,中国国民政府の首都南京を攻略した日本軍が,中国軍民に対して大規模な残虐行為を行った事件。1937年12月13日に南京を占領した日本軍は,住民を巻き込んだ包囲殲滅戦,残敵掃蕩戦を展開した。この時,すでに戦闘部隊の体をなさず,戦意を喪失した膨大な数の投降兵,敗残兵,捕虜,負傷兵を,戦時国際法に違反して処刑,殺害した。日本軍の軍事占領は翌年3月まで続き,この間に敗残兵狩り,便衣兵(べんいへい)(私服になった兵士)狩りを行い,兵士の嫌疑をかけた成年男子市民も殺害した。中国女性の強姦,食物や物資の略奪,人家の放火・破壊など軍紀の乱れによる不法行為も多発した。南京城内とその周辺さらに付近の農村を含めて十数万の中国軍民が犠牲になったと推測されている。
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