南小松村(読み)みなみこまつむら

日本歴史地名大系 「南小松村」の解説

南小松村
みなみこまつむら

[現在地名]志賀町南小松

琵琶湖畔より、北西山中までを占め、南は北比良きたひら村、北西は鹿しし(現高島郡高島町)。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に小松とあり、高一千六六〇石。寛永石高帳に高一千九三石余とあり、幕府領三八二石余、旗本石川領二一〇石余、同神保領五〇〇石。慶安高辻帳では田方四七六石余・畑方三〇石余・永荒五八七石余。元禄郷帳では高一千一四石余となり、堅田藩領・三上藩領、旗本神保・黒川両氏領。

南小松村
みなみこまつむら

[現在地名]四日市市南小松町

鹿間しかま村の東方内部うつべ川の南に位置し、対岸には北小松きたこまつ村がある。「神鳳鈔」に「小松御厨一斗、六九十二月」と出る。江戸時代は亀山藩領。三重郡と鈴鹿郡の境にあり、慶安郷帳(明大刑博蔵)では三重郡に属するが、元禄郷帳以後は鈴鹿郡。延宝四年(一六七六)の戸数三九、うち本役一六・無役二三、人数二一六。牛六、馬三。享保一五年(一七三〇)には戸数六五、人数二八〇に増加。当村の新田畑は一〇三・三石余。溜池一、井堰六。神社は八幡宮山みややま

南小松村
みなみこまつむら

[現在地名]松本市里山辺 南小松

小松村はすすき川によって北と南に両断されているが、小笠原氏の林大はやしおお城の大手にあたり、西は筑摩つかま村、東ははやし村に接している。

寛永六年(一六二九)小松村が北小松村と南小松村に分れ、同一九年の信州松本御領分村々高附帳に「弐百七拾三石壱斗五升六合 南小松村」とあり、「信府統記」に「御朱印高百七拾八石四斗八升八合」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は三一四石一斗二升七勺である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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