滋賀郡(読み)しがぐん

日本歴史地名大系 「滋賀郡」の解説

滋賀郡
しがぐん

面積:七一・七三平方キロ
志賀しが

琵琶湖南西部にある。旧郡域の大部分は大津市に編入され、現在は一町のみが郡域として残る。古代以来近世までの郡域は東は琵琶湖に面し、南部は瀬田せた川を境に栗太くりた郡と接し、南から西にかけては山城国綴喜つづき愛宕おたぎ宇治うじ各郡、北は高島郡に接する。以下の記述は近世までの郡域を対象とする。

〔原始・古代〕

和名抄」郷里部の最初に配され、古市ふるち真野まの大友おおとも錦部にしこりの四郷からなる。「養老令」の基準では下郡。「和名抄」東急本に「志賀」と訓じ、「節用集」はシガと訓ずる。表記は「和名抄」諸本ともに「滋賀」で、これが古代の公式表記だったことは疑いないが、ほか志我・志賀(続日本紀)、斯我・志何・賀・慈賀(正倉院文書)、また四賀・思我(万葉集)などがみられる。郡名の初出は「続日本紀」養老元年(七一七)九月二七日条だが、地名としてはもっと早く「日本書紀」景行天皇五八年二月一一日条に「近江国に幸して、志賀に居しますこと三歳、是を高穴穂宮たかあなほのみやと謂す」とみえる。もちろん景行天皇朝に立郡(立評)されているはずもなく、紀の編者が単なる地名として使用したにすぎない。しかし高穴穂宮のことは「古事記」成務天皇段にも「近淡海の志賀の高穴穂宮」とあり、柿本人麻呂・高市黒人らも滋賀のことをその歌に詠み込んでおり、少なくとも地名としての滋賀の成立は七世紀半ば頃まで確実にさかのぼりうる。

当郡は逢坂おうさか山を越えてきた北陸道が最初に近江国を通過する地で、畿外とはいえ畿内山背国に接しており、早くから文化が開けたと思われる。縄文早期の遺跡としてよく知られる大津市石山いしやま貝塚からは、セタシジミなどの瀬田川の貝類を採集して生活していた人々の生活の跡がうかがえる。概して地形的には農業の可能な地は少ないが、弥生時代の遺跡もいくつかあり、大津市滋賀里しがさと遺跡・北大津遺跡・大伴おおとも遺跡・榿木原はんのきはら遺跡など郡の中部地域に多い。同地域では弥生時代中期後半と後期末の二時期に、春日山かすがやま遺跡・高峯たかみね遺跡などの高地性集落遺跡が出現する。首長墓とみられる前期古墳は一〇基余を数え、ほぼ北陸道(のちの西近江路)沿いに分布する。志賀町の和邇大塚山わにおおつかやま古墳・小野おの古墳群などの首長墓は、同町小野神社を残す小野氏や真野氏といった大和王権を支える有力豪族の和邇氏と同族氏族、また近淡海国造の近江氏にかかわるものと思われる。これら氏族の勢力伸長は湖西の平野部の狭さを考えれば、農業生産によってではなく、畿内と北陸方面などを結ぶ交通の要衝を抑えることでもたらされたものとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報