日本大百科全書(ニッポニカ) 「古沢滋」の意味・わかりやすい解説
古沢滋
ふるさわしげる
(1847―1911)
自由民権運動家、政治家。弘化(こうか)4年1月11日生まれ。土佐藩士。もと迂郎(うるお)、のち滋と名のった。1862年(文久2)上洛(じょうらく)して倒幕運動に挺身(ていしん)、維新後イギリスに渡り立憲思想、議会制度を研究して帰国した。その後『日新真事誌(にっしんしんじし)』に寄稿していたが、1873年(明治6)9月『郵便報知新聞』の主筆に迎えられた。翌1874年1月愛国公党の結成に板垣退助(いたがきたいすけ)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに参画し、「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を起草して署名者の一人となった。以後立志社、愛国社結成に尽力する一方、『大阪日報』(のち自由党の別働隊日本立憲政党に買収され『日本立憲政党新聞』となり、『大阪日報』は身代り新聞として残された)編集長として民権思想の鼓吹に努めた。1882年板垣の洋行を機に自由党機関紙『自由新聞』に移り、洋行を非難する立憲改進党と三菱(みつびし)の攻撃の先頭にたち、「偽党撲滅」「海坊主退治(うみぼうずたいじ)」の標語をもって論陣を張った。のち大蔵・内務・農商務・逓信(ていしん)各省の官吏、奈良・山口・石川各県の知事を歴任し、1904年(明治37)貴族院議員に勅選された。明治44年12月22日死去。
[猪飼隆明]
『山本文雄著『日本新聞史』(1948・国際出版)』▽『板垣退助監修『自由党史』(岩波文庫)』