デジタル大辞泉
「吉村寅太郎」の意味・読み・例文・類語
よしむら‐とらたろう〔‐とらタラウ〕【吉村寅太郎】
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吉村寅太郎 (よしむらとらたろう)
生没年:1837-63(天保8-文久3)
幕末の尊王攘夷派の志士。土佐藩士。名は重郷。寅太郎は通称。庄屋の家に生まれ,若年にして跡を継ぎ実績を上げた。1861年(文久1)武市瑞山の勤王党に加盟し,翌年脱藩して活躍したが,寺田屋事件に連座して土佐に下獄した。63年再び上京し,松本奎堂,藤本鉄石らと中山忠光を擁して天誅組を組織し,大和五条の幕府代官所を襲撃し,のち9月敗死した。
執筆者:井上 勝生
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吉村 寅太郎
ヨシムラ トラタロウ
明治・大正期の教育家 四高校長。
- 生年
- 弘化5年2月5日(1848年)
- 没年
- 大正6(1917)年1月14日
- 出身地
- 但馬国豊岡(兵庫県)
- 学歴〔年〕
- 慶応義塾卒
- 経歴
- 旧豊岡藩士の子として生まれ、明治6年文部省に出仕。広島外国語学校、広島師範校長を経て、20年第二高等中学校初代校長。のち四高校長を務めた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
吉村寅太郎
よしむらとらたろう
[生]天保8(1837).土佐
[没]文久3(1863).9.26. 大和,吉野
幕末の尊攘派志士。虎太郎とも書く。名は重郷。父太平の跡を継いで庄屋になったが,文久1 (1861) 年武市瑞山の勤王党に加盟,翌年脱藩して国事に奔走,寺田屋騒動で捕われて送還された。同3年さらに京都に出て藤本鉄石,松本奎堂らと天誅組を起して討幕攘夷の挙兵をしたが,鷲家口 (わしかぐち) の戦いに敗れて自刃。 (→大和五条の変 )
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吉村寅太郎
よしむらとらたろう
1837.4.18~63.9.27
虎太郎とも。幕末期の尊攘派志士。土佐国高岡郡津野山郷芳生野村の庄屋吉村太平の長男。12歳で庄屋となり各地の庄屋を歴任。その間志士と交わり,武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に参加し,1862年(文久2)脱藩。寺田屋騒動で捕らえられて土佐へ送還されたが,出獄すると翌年再び上洛し,天誅組総裁の1人となり大和国で挙兵。諸藩軍の追討をうけて苦戦し,吉野の鷲家口(わしかぐち)で戦死。
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吉村寅太郎 よしむら-とらたろう
1848-1917 明治-大正時代の教育者。
弘化(こうか)5年2月5日生まれ。但馬(たじま)(兵庫県)豊岡藩士の子。明治6年文部省にはいり,広島外国語学校,広島師範などの校長を歴任し,20年第二高等中学校初代校長となる。のち四高の校長をつとめた。大正6年1月14日死去。70歳。慶応義塾卒。
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吉村寅太郎
よしむらとらたろう
1837〜63
幕末の尊攘派志士
土佐藩士。武市瑞山 (たけちずいざん) の勤王党に参加し,尊王攘夷運動に活躍。討幕のさきがけとして天誅 (てんちゆう) 組をつくり,大和五条に兵をあげ代官所を襲ったが敗れて自殺した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
吉村寅太郎 (よしむらとらたろう)
生年月日:1837年4月18日
江戸時代末期の土佐藩士;天誅組幹部
1863年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の吉村寅太郎の言及
【東津野[村]】より
…北川の三島神社境内にある農村歌舞伎舞台は国の重要有形民俗文化財。なお[吉村寅太郎]は村内芳生野(よしうの)の出身で,吉村家は代々庄屋を務めていた。林業を主とし,シイタケ,茶,栗などを産する。…
※「吉村寅太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」