公衆に主として非アルコール性飲料と歓談の場を提供する店。
コーヒーとともに普及したヨーロッパの喫茶店は,西アジア起源のものである。17世紀にフランスやイギリスに生まれたカフェやコーヒー・ハウスcoffee houseは,とくに重要な社会的・文化的・政治的な機能をもった。
フランスのカフェはトルコから伝わり,マルセイユ(1654)経由で普及し,異説もあるが,1672年パリ最初のカフェがアルメニア人パスカルによって始められたといわれる。イギリスでは,1650年ユダヤ人ジェーコブズが最初のコーヒー・ハウスをオックスフォードに開く。同市の別のコーヒー・ハウス〈ティリヤード〉店には建築家C.レンなどが出入りし,ローヤル・ソサエティ設立の場のひとつとなった。52年にはロンドンにも最初のコーヒー・ハウスがつくられ,66年の大火後その数は激増した。イギリスのコーヒー・ハウスは18世紀初頭にはピークを迎え,ロンドンだけで2000~3000軒に達したという。これに比べると同じころのパリのカフェは300軒前後,フランス革命前で700軒程度でしかなかった。
これらの施設は名称のとおりコーヒーを供したほか,イギリスの場合は,コーヒーと同時期にもたらされた紅茶,チョコレートなどのエキゾティックな飲料をも供した。しかし,喫茶店の歴史的意義は,それが文化面のみならず,政治や経済の面でも,情報交換と世論形成の場となった点にある。イギリスでは,新聞をはじめ初期のジャーナリズム,文芸批評,証券・商品取引などはほとんどコーヒー・ハウスを舞台として成立した。パリでもロンドンでも,初期の新聞は喫茶店でだれかが読みあげるのを〈聞く〉ものであったし,南海泡沫事件(1720)に至る異常な株式ブームの舞台もコーヒー・ハウスであった。世界の海運情報を独占し,大英帝国を支えたロイズ海上保険会社もコーヒー・ハウスから出発した。喫茶店はまた,反体制派のたまり場となることが多かったので,17,18世紀にはイギリスでもフランスでも,営業時間や内部での談論内容の規制が試みられた。しかし,イギリスの〈コーヒー・ハウス禁止令〉(1675)が11日で撤回されたように,規制は成功しなかった。
自由な雰囲気をもったイギリスのコーヒー・ハウスは18世紀中ごろから急に衰え,上流階級のクラブと都市下層民のパブにとって代わられてゆく。それは,コーヒーに代わって紅茶が国民的飲料となったうえ,紅茶が家庭内で飲まれるようになったこと,また大地主による支配体制が確立して社会の階層秩序が固定化したためである。コーヒー・ハウスとは異なり,クラブやパブは酒類を供し,各階層の表象となる。パリのカフェが芝居や音楽会と結びついて発展したのに対し,すでに19世紀のロンドンではコーヒー・ハウスはほとんどみられなくなる。
執筆者:川北 稔
アラビア語ではマクハーmaqhāというが,コーヒーの語源でもあるカフワqahwaもコーヒー店の意によく使われる。マクハーは一般に通りに面して開かれており,庶民の生活にすっかり溶け込んでいる。ラジオなどがなかった時代には,マクハーこそがさまざまな情報源であり,界隈の人々の客間でもあり,仕事の口が見つかる職業安定所の機能さえもった。往時は夕方になると人々はマクハーに出かけ,タバコや茶,コーヒーのサービスを受けながらシャーイルという講談語りがラバーブ(1~3弦の胡弓)を手にして語るアブー・ザイド等の英雄譚に夜明けまで聞きほれ,マクハーは映画館や芝居小屋の代りとなっていた。現在でもマクハーは活況を呈し,ムアッリムと呼ばれる茶屋の主人が常連に巧みに応対し,とくに年金生活者の姿は朝から見られ,トウラー(西洋すごろく),トランプ,ドミノ,チェス等に興じている。客の間を靴磨きが歩き回り,富くじ売りや,雑誌・タバコ売りが足繁く回ってくる。これらのマクハーには女性の姿はまったく見られず,男の社交場である。酒が厳しく禁じられているイスラム世界にあっては,マクハーこそが庶民のくつろぎの場であり,またマクハーには庶民の生活のたくましい鼓動が脈打っている。マクハーは娯楽の場であると同時に,社会生活に深く根ざしたものであり,アフガーニーやムハンマド・アブドゥフなど,近代のイスラムの改革思想家たちもカイロ下町のアタバ広場のマクハーに夜ごとに座り,エジプトの歴史を決する政治談義が繰り広げられた。またマクハーは文化を支える役割も果たしてきたが,その伝統は今でも残っており,たとえばエジプト文壇の第一人者,ナギーブ・マフフーズは金曜日の夜,カイロのリーシェというマクハーに必ず現れ,若手作家や読者たちと文学論を交わす風景が見られるが,そのような例はほかにも多い。なお,エジプトのマクハーでは,トルコ・コーヒーや茶と並んで水タバコが欠かせぬものである。水タバコは首都カイロではシーシャ,地方都市ではブーリー,農村ではゴーザと,呼名と形が異なっていて,小説の中では水タバコの名で農村か都会かが判別できる。
執筆者:奴田原 睦明
ヨーロッパの清涼飲料を飲ませる店であるソーダファウンテン,パリのコーヒーを飲ませる店のカフェをまねたのが,日本での喫茶店のはじまりであった。1888年(明治21)東京下谷黒門町にカフェをまねた〈可否茶館〉が開店したが,これは時期が早すぎて客の入りが少なく,すぐに閉店した。1911年東京銀座南鍋町に開店したカフェ・パウリスタをはじめとして,明治の末に東京や大阪の盛場にコーヒー等を飲ませる店としてカフエができた。日本の工業化を背景として,モダンな気分がするカフエは商売として成り立ち定着した。しかし,パリのカフェレストランをまねて,酒類や西洋料理を提供し,ウェートレスを客の横にはべらせてサービスをさせる店ができて,それはカフェーと称するようになった。昭和初期に音質,音量ともにすぐれた電気録音のレコードと電気蓄音器ができたので,それを使ってクラシック音楽を聞かせ,コーヒー等を飲ませる店として,まず名曲喫茶と称する喫茶店ができた。ミルクホールより高価にコーヒー等を売り,町娘風のウェートレスが持運びをしたので,カフェーよりも清楚で安価でモダンな感じがする喫茶店は知的な若者たちに支持された。つづいて軽音楽を聞かせる喫茶店ができてカフェーの客をうばった。それで,場末のカフェーなどのうち,歌謡曲や浪花節のレコードを聞かせて社交喫茶などと称する店ができた。江戸時代の水茶屋の現代化が喫茶店だとそのころはいわれた。第2次大戦後は自由にふるまえる若い女性が増え,また喫茶店を談話や社交の場として使うことが若者の間で流行したので,喫茶店はレコードを聞かせる店ではなくなった。さらにコーヒー専門店などと称する店も多くなった。
→茶館
執筆者:加太 こうじ
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
コーヒー、紅茶、酒類以外の各種飲料、ケーキ、果物のほかサンドイッチなど軽食を供する店。
[佐藤農人]
1551年にトルコのイスタンブールでカッフェーと名づけて開かれたのが始まりといわれる。そのトルコから各国にコーヒーが輸出されて、16世紀末にはエジプトのカイロに3000に及ぶコーヒー店ができ、17世紀なかばにはイギリス、フランス、アメリカなどにも普及した。とくにイギリスのコーヒーハウスは、情報文化の中心的役割を果たし、政治・社会・文化に深くかかわりをもった。18世紀のロンドンには2000以上の店があったという。その後ヨーロッパでは、しだいに芸術家たちのたまり場になって、キャバレー的性格を帯びた。
アメリカにおける喫茶店としては、ドラッグストアに付属してケーキ類をおもに供する店が多かったが、多種類のコーヒーとソフトドリンクを主に軽食も供するセルフサービス方式のチェーン店が大都市を中心に展開するようになった。フランスやイタリアなどには、たばこ店を兼ねてキャンディーや絵葉書を売ったり、ピッツェリーア(ピッツァ屋)を兼ねたり、朝早い勤め人や労働者に朝食を供する店もある。ヨーロッパ北部の日照時間の短い国では、屋外の歩道にテーブルや椅子(いす)を置いて日光浴もできるレストランと兼ねた店もある。
日本では、江戸時代に水茶屋とよばれるものがあり、明治になって新聞縦覧所、ミルクホールなどが現れ、1878年(明治11)神戸・元町の放香堂でコーヒーを売るとともに店内で飲ませたという記録がみられる。そして1986年東京・日本橋に洗愁亭というコーヒー店ができたといわれるが、近代的喫茶店としては1988年東京・下谷(したや)黒門町に開店した可否茶館(カッヒーちゃかん)が最初とされている。大正時代に入って喫茶店はその数を増し、神戸にはコーヒーを飲ませる屋台店なども現れたが、しだいに純粋の喫茶店と、酒類や洋食などを供し女給を置いてサービスするカフェーとに分かれた。
[佐藤農人]
第二次世界大戦後、カフェーはキャバレーやクラブへとその業態を変え、喫茶店は昭和30年代以降、経済の発展とともに急速に店舗数を増やした。そして、昭和40年代の前半に生まれた、フードやアルコールにまでメニューを広げたスナック喫茶で一つの頂点を迎える。しかし、その後のインスタントコーヒーの普及によって、喫茶店の客数の伸びは鈍化する。昭和40年代後半になると、インスタントコーヒーに対抗して品質を前面に打ち出した、コーヒー専門店が急速に伸びてくる。こうして喫茶店、とりわけコーヒー専門店は、低い原価率で儲(もう)かる業種として第二の頂点を築く。1981年(昭和56)には、喫茶店の総店舗数16万店となり、店舗の数では飲食店業界のなかで第1位となった。
しかし、この隆盛も1982年ごろからは店舗間の競合が激しくなり、出店数も頭打ちになっていく。店舗の出店費用の増大、人件費の高騰等が利益を奪っていったのである。この状況を打開するため、喫茶店はふたたびコーヒーに加えて、フードメニューを強化した。しかし、この分野には1970年代から急速に店舗数を増やしたファミリーレストランやファストフード店という強力な競争相手がいる。コンビニエンス・ストアもその一つで、喫茶店のフードメニューでは太刀打ちできなかった。
この局面を打開したのが、昭和50年代後半に生まれたセルフサービス方式のコーヒーショップである。低価格(150~200円)のコーヒーを中心に、原材料費と人件費を抑えることで出店費用の高い都心にも出店できるというメリット(利点)をいかして、2000年(平成12)には2500店以上にまで成長した。低価格、セルフサービス方式のコーヒーショップには、海外の有力チェーンも参入している。
こうしたコーヒーショップとは逆に、数は少ないがコーヒー専門店や紅茶専門店も堅調な業績を示している。また、地方都市ではフードメニューを強化したレストランタイプのカフェーが、在来の喫茶店にとってかわっている。このように、喫茶店は(1)低価格、セルフサービス方式のコーヒーショップ、(2)品質重視のコーヒー専門店、(3)地方都市中心のレストランタイプのカフェー、といった三つのパターンに分化しているといってよいであろう。
[永嶋万州彦]
『小林章夫著『コーヒー・ハウス』(1984・駸々堂出版)』
…中国の旧式喫茶店,日本の茶店(ちやみせ)にあたる。時代や地方や規模によって,茶園,茶社,茶室,茶肆,茶居,茶坊,茶寮,茶楼(2階建て)などの別称があり,さらに卓子(テーブル),椅子(いす)を備えた客席を茶卓,茶座とも称した。…
※「喫茶店」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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