土屋氏(読み)つちやうじ

改訂新版 世界大百科事典 「土屋氏」の意味・わかりやすい解説

土屋氏 (つちやうじ)

(1)相模国余綾(よろき)郡土屋本領とする中世武家。桓武平氏の流れをくむ相模国西部の雄族中村氏の一族で,中村荘司宗平の三男宗遠(むねとお)が土屋を領して名字の地としたことにはじまる。宗遠は1180年(治承4)の源頼朝挙兵に子息らとともに参加し,敗走後再び勢力を増して平氏迎撃を企図する頼朝の命をうけて甲斐に下り,武田信義らの参軍を促すなどその活躍が知られる。しかし1209年(承元3)梶原家茂を殺害しようとして失敗,兵具召上げのうえ,和田義盛に預けの身となる。宗遠の過去の勲功と義盛の進言によってまもなく厚免されたのであるが,こうした縁にもよるのであろうか,13年(建保1)の和田合戦では一族あげて和田方にくみして戦っている。この戦いの結果一族は衰退したが,宗遠の子宗光が後年評定衆の一員となっている点からみて,勢力回復の余地は十分残されていたのであろう。なお戦国大名武田氏の家臣土屋氏は後裔という。
執筆者:(2)近世大名譜代土屋昌次・昌恒兄弟が武田信玄・勝頼に仕えて活躍し,武田氏滅亡後,昌恒の子忠直が召し出され徳川秀忠近習から1602年(慶長7)下総久留里で2万石の大名に進んだ。同藩は79年(延宝7)取りつぶされ旗本となったが,忠直の次男数直(1608-79)は徳川家光の近習から若年寄・老中となり,その子政直も老中に就任し9万5000石の大名として常陸土浦に居城した。数直流は明治維新後は子爵となった。
土浦藩
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世界大百科事典(旧版)内の土屋氏の言及

【土浦[市]】より

…また銚子,野田に先だってしょうゆ醸造業が発達した。土屋氏(9万5000石)が城主のとき明治維新をむかえ,一時土浦県,新治(にいはり)県の県庁が置かれた。茨城県編入後は県南の中心となった。…

【土浦藩】より

…87年土屋政直が再入封したが,政直は加増を受け1718年(享保3)には9万5000石となった。その後,土屋氏は代々土浦に居城し明治維新にいたった。その所領は46年(延享3)には土浦を中心に常陸・下総に6万石,和泉・近江・美作に3万5000石となった。…

※「土屋氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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