中国で1449年(正統14),河北省懐来県付近の土木堡で,明の英宗がオイラート軍に捕虜となった事件。1440年代西モンゴリアを根拠地に北アジア遊牧地帯のほぼ全域を握ったオイラート部長エセンは,国力充実の一環として明に対して大規模な通商活動を展開し,支配下の西域商人の隊商などを送り込む一方,銃,弓,鉄器などの禁制品の密輸をはかった。その貢使の数は,従来にくらべ数十倍に急増したため,明側が制限を加えると,エセンは49年7月威嚇のため,四手に分かれて侵攻し,みずからは大同に向かった。明は英宗の寵臣,宦官王振の強硬策にひきずられて親征に決し,宣府(現,宣化)付近にて両軍主力が遭遇した。8月15日土木堡にて明軍は全滅し,英宗は捕虜となった。明は景帝を立て,于謙を中心に防衛体制を立て直し,抗戦の意を示したので,エセンは英宗の復位と好条件の和議をねらって,再侵入し,北京を囲んだが,結局大同辺外に退き,翌50年英宗を無条件で返還した。
執筆者:萩原 淳平
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中国、明(みん)の正統(せいとう)帝がオイラート部長エセンと1449年土木(河北省)で戦い、捕虜となった事件。1440年ごろオイラート部長となったエセンは太師淮王(たいしわいおう)と称し、元(げん)の後裔(こうえい)トクタ・ブハをハンにいただき、全モンゴルを支配し、女直(じょちょく)を抑え、貿易上の紛争から1449年、大同(山西省)を略奪した。正統帝は親征し、大同に至ったが、形勢不利とみて引き返す途中、土木でオイラート軍と戦って大敗し、帝は捕虜となった。エセンは有利な条件で送還しようとしたが、明では景泰帝をたて、正統帝を上皇としたので、エセンは怒り、進んで北京(ペキン)を包囲した。しかし明は譲らなかったのでエセンは退却し、翌年正統帝を無条件で送還した。
[青木富太郎]
明の正統帝が,1449年に北方オイラト部のエセンの軍と河北省の土木堡(どぼくほ)で戦い,敗北して捕虜となった事件。当時のオイラト部は,実質的に全モンゴリアを支配する勢力を持ち,首都北京を脅かしたが,結局無条件釈放に踏み切ったため,帝はことなきを得た。しかし,これ以後北方民族の進出が激しくなり,明はいわゆる北虜(ほくりょ)に苦しんだ。
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…宣宗のとき,御史に任官,19年間兵部右侍郎に在任し,1448年(正統13)兵部左侍郎となった。49年土木の変にて英宗がオイラートのエセンの捕虜となると,彼は南遷論など動揺する朝廷内をおさえ,英宗の弟郕王(景帝)を立て北京を死守した。翌年和議がなり,英宗は帰国した。…
…39年にトゴンは死に,長子エセンは統一モンゴルの力を利して対外拡張を開始,東はウリヤンハイ三衛・女真人地区,西はハミ,モグーリスターンまでを掌握した。明とは平和通商関係を保持しようとしたが,明側が貿易制限に出たため,1449年四手に分かれて侵攻,迎撃する英宗親征軍を土木堡で大破し,英宗自身をも捕虜とした(土木の変)。翌50年英宗を送還したが,この間しだいにトクトア・ブハと対立を深め,51年これを倒し,53年みずから大元天盛大可汗(ハーン)と称して名実ともに元朝を継承する主権者たることを宣言した。…
…
[北虜南倭]
これに対し,正統帝(在位1436‐49)は王振の扇動を受けて親征に出発したが,土木堡で奇襲され,帝自身は捕虜となり,王振はじめ多数の高官が殺された。いわゆる〈土木の変〉である。このため北京は一時混乱に陥ったが,于謙らは正統帝の弟を即位させて北京の防備を固め,エセンの侵入を撃退した。…
※「土木の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一般的には指定地域で、国の統治権の全部または一部を軍に移行し、市民の権利や自由を保障する法律の一部効力停止を宣告する命令。戦争や紛争、災害などで国の秩序や治安が極度に悪化した非常事態に発令され、日本...
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