増原村(読み)ましはらむら

日本歴史地名大系 「増原村」の解説

増原村
ましはらむら

[現在地名]高梁市玉川町増原たまがわちようましはら

たま村の南西、増原川の上流部に位置。天保郷帳に古くは「猿原村」とあり、寛永備中国絵図に同表記でみえる。高一五〇石余、山崎家治先知。正保郷帳でも同表記、高は同前、幕府領。芝草山中とあり、枝村に上野うえの村・中杉なかすぎ村をあげる。万治元年(一六五八)山崎家治の次男豊治が領地替となったとき当村はその知行所となり、旗本山崎領として幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・元禄郷帳など)


増原村
ましわらむら

[現在地名]鏡村増原

横屋よこや村の南にあり、村内を的淵まとぶち川に注ぐ小川が流れる。領家りようけ郷一四ヵ村の一で、「土佐州郡志」に「当横屋西、東限横屋、西限梅木、南限葛山、北限横屋沢之奈路、東西四町南北六町余、(中略)其土黒」とみえる。

天正一七年(一五八九)の領家山地検帳に「増原名」として地積二町五反余が記され、すべて無姓者の扣地と作地。うち田一町九反余・畠三三代余・屋敷四四代余で、水田が発達していた。屋敷八筆のうち七筆は居屋敷で、名本は二九代二歩の「名モトヤシキ」に住んでいた。ほかに八反余の切畑があった(天正一七年領家山切畑地検帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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