〈墳〉は土を高く盛った墓を指し,冢(ちよう)とも呼ばれる。日本ではその俗字,塚(つか)を使うことが多い。〈墓〉は墓碑を立てたりはするが,遺骸を埋葬する本体は地下にある平らなものをいう。しかし,墳墓というとき,前者を指す場合と,両者をともに指す場合とがある。また,秦始皇陵,佐保山東陵(さぼやまひがしりよう)(光明皇后陵)というように,天子,皇后の墓を陵(りよう)と呼ぶ。これに対して,王族や貴人の墓は,唐の永泰公主墓,漢の将軍霍去病(かくきよへい)墓,聖徳太子磯長墓(しながのはか)のように,墳丘があっても一般のものと同様,墓と呼ぶ。世界各地の墓制や葬礼の民族学・民俗学・社会学的な記述は〈墓〉の項に譲り,ここでは考古学的に墳墓を概観し,次いで日本を中心として東アジアの墳墓の変遷をたどることとする。なお,あわせて〈葬制〉の項目も参照されたい。
人を葬るには土葬,火葬,風葬,水葬などがあり,また,いったん土葬か風葬によって骨だけとした後に本格的に葬る,いわゆる洗骨葬がある。これらのうち旧石器時代(ネアンデルタール人)以来,最も広く行われているのは,穴を掘って遺体を埋める土葬である。墓穴のことを中国では壙(こう)という。日本考古学においては,墓と無関係であっても人が掘った穴を土壙(坑)(どこう)と呼び,そして墓穴以外の設備・構造が遺存していない墓,あるいはその痕跡をとどめていない墓を土壙墓(どこうぼ)と呼んでいる。土葬は,遺体をまっすぐ伸ばした形で葬る伸展葬(しんてんそう)と腕・脚を折り曲げた形の屈葬(くつそう)に大別でき,それぞれの姿勢の向きによって,仰向け(仰臥(ぎようが)),横向き(横臥(おうが)),うつ伏せ(俯臥(ふが))に区別できる。このうち仰臥伸展葬が最も一般的であるが,横臥屈葬も旧石器時代以来,世界各地の先史時代に行われた。屈葬は,人がとりうる最小の姿勢で葬ったものであるから,墓穴を掘る労力を節約したものと説明できる。しかし,胎児の姿勢をとらせたとか,死霊を鎮めるためなどとする解釈もある。俯臥伸展葬(俯身葬)は,中国の仰韶(ぎようしよう)文化・竜山文化・殷代,ルーマニアの新石器文化,ロシアのミヌシンスクにおけるアンドロノボ,カラスク両文化に散見する特殊な姿勢である。
火葬は,土葬に比べ,年代的にも地域的にも限られて認められる。知られる最古の火葬はイラクのテペ・ガウラⅩⅤ~ⅩⅡ層(ウルク期,前4000年)の実例である。ヨーロッパでは新石器時代初期(ダニューブ文化)にまれにみられるが,後期から青銅器時代にかけて大いに栄え,火葬骨を壺に納めたことが文化の名称(火葬骨壺墓地文化Urnfield Culture)に取り上げられるほどである。洗骨葬,再葬,二次葬などとされるものの最古の例は,新石器時代トルコのチャタル・ヒュユク(前6000年)のもので,遺体を風葬し,鳥や昆虫についばませて骨だけとした後,布かマットに包んで住居の床下に土葬している。また,埋葬に際して遺体周辺に赤色顔料を散布することが旧石器時代以来,世界各地の墓でみられ,浄めの意味などが説かれている。
埋葬に際して,遺体は樹皮,布,わらなどで包んだり,さらに木棺,土器棺(とくに甕棺(かめかん)),陶棺,石棺に納めることが多い。火葬骨は土器か金属製の容器に収納することが多い。遺体あるいはそれを納めた棺は,そのまま床下,屋外,野外,洞窟,岩陰などに土葬することもある。また,崖や斜面にうがった横穴(よこあな)やそれに続く墓室(中国後漢代の崖墓(がいぼ),日本古墳時代の横穴),垂直に掘り下げてから水平方向に掘った横穴(南ロシア青銅器時代の地下式横穴墓,宮崎・鹿児島県の地下式横穴),地下の坑道の壁面にうがった横穴(ローマの初期キリスト教徒の墓所であるカタコンベ)に納めることもある。石,塼(せん),木などで構築した墓室内に棺を納めることも多い(石室,塼室墓)。墓室の中にあって棺を包みもつ構造を槨(かく)という。日本考古学では室と呼ぶべきところを槨と呼ぶ人もある。エジプトのツタンカーメンの墓や中国の馬王堆(まおうたい)漢墓のように棺の外箱を何重にも重ねることもある。湿気を抜くために棺の周囲を貝で包んだもの(中国の戦国・漢代の貝墓),やはり吸湿用に木炭をつめたもの(馬王堆漢墓,日本の古墳の木炭槨)もある(木槨墓)。
墓の全体か遺体頭部の周囲を石で囲む,板石をかぶせる,立てる,等々はすでに旧石器時代の墓で行われ,野獣による掘りおこしを防ぐためといわれている。しかし墓標としての意味ももつであろう。エジプトでは第1王朝の王墓以来,王の名を記した墓碑を立てた。ツタンカーメン王墓の扉は王の名を記して封印してあった。死者の像を表した墓標はギリシア,エトルリアにあり,名を記した墓標はエトルリア,ローマにある。中国では,死者の姓名経歴を記した碑を立て,唐代以来,墓塔を立てる。墓の内部に墓誌を入れることも,戦国時代(中山王墓)以来行われている。朝鮮では百済の武寧王陵の墓誌が有名である。日本では奈良時代から平安時代初めにかけて,おもに火葬墓に伴っている。墓室を地下に設け,地上には祠堂を建てるもの(殷の婦好墓)もある。地上に標識を残さないのは盗掘を防いだものであろう。
墳丘を築く場合には,土を盛るもののほか,石を積み上げた積石塚(ケルンcairn),土を盛り,表面全体あるいは一部を切石で化粧したり,石塊を葺いたり(葺石(ふきいし)),周囲に立石を配するなど各種の外装を施したものがある。フランス南西部のルグルドゥRegourdou洞窟では遺体の上に石積みがあり,墳丘状施設の最古の例をなしている。径1~2mで墳丘とは呼べないほど小規模なものから,径100mを超え,高さ十数~数十mに達する大規模なものまで,墳丘の大きさはさまざまである。墳丘の平面形も変化に富み,円形,方形,長方形,台形その他がある。円形と台形ないし長方形とを組み合わせた前方後円墳の墳形は,日本の古墳に特徴的な存在であるが,オランダの青銅器時代の火葬墓には,小規模ながら同じ形の墳丘をもつものがある。エジプトのピラミッドは,墳丘として特例である。墳丘のまわりに周濠や周庭,塀をめぐらして兆域(ちよういき)を画することもある。
墓室を地下に設け,地上に墳丘を築く場合(マケドニアのフィリッポス王のものと推定される墓,唐の永泰公主墓,新羅の王墓),地表またはそれよりやや低くして墓室を設け,その上に墳丘を築く場合(ヨーロッパ新石器時代~鉄器時代,日本の古墳時代の横穴式石室)もある。日本の古墳の竪穴式石室のように,墳丘を築き頂上から掘り下げて墓室を設けるのはむしろ珍しい。墓室や外まわりに巨石を用いた墓は巨石墳(墓)と呼ばれ,巨石記念物の一種として扱われる。ヨーロッパ西部のものが名高いが,東アジア,インドほか世界各地に似たものがある。なお本来の墳丘を失って石室が露出した状況のものをヨーロッパでドルメンと呼んでいるのに対して,東アジア(日本では九州西北~北部の縄文~弥生時代)のドルメン(支石墓)は,もともと墳丘をもたず,巨石をもって標識とした点が違っている。墳丘をつくらず自然の丘を利用して大規模な横穴式墓室をつくることもある。ギリシア,ミュケナイのトロス(穹窿墓(きゆうりゆうぼ))や中国の満城漢墓,唐の乾陵がその最たるものである。
墓の前に拝殿など祭祀の施設をつくることもある。また,死者を守る従者や軍馬などの彫像を立てたりすることは,漢の霍去病墓に立てた馬の石彫以来,古代中国で知られている(石人石獣)。新羅の王陵には周囲に十二支像を表現した護石(ごせき)を配している。
墓室全体を,屋根まで備えた家としてつくることもある。ヨーロッパでは新石器時代後期(縄目文土器文化)・青銅器時代初期に木造の〈死者の家〉を建て,この上に墳丘を築いた。墓室の内部を建物内部に見たてて,柱や組物をつくったり描いたりすることもある(漢,高句麗)。また棺の形を家にかたどることもあった。海に生きる人びとの墓には船を用いることもある。イギリスのサットン・フーのアングロ・サクソン王墓(6~7世紀)はその最も著名な実例(長さ24m)である。デンマーク,スウェーデンのバイキングの火葬墓には,墳丘(長さ十数~80m)を舟形につくり,石を立て並べて囲んだものがある。
墓室の内外を壁画,文様,浮彫で飾ることは多い(エジプト,中国)。具象的な表現に関しては,現世における死者の生活や活躍ぶりをそのまま来世にもちこむ思想の反映,王を頂点とする官僚体制をそのまま来世で維持することの表現,死者を守るための表現等々の解釈ができる(壁画墓,装飾古墳)。
死者に添えて墓に埋める品物を副葬品(ふくそうひん)と呼ぶ。墓前に供えた食料や食器は供物と呼ぶが,それを墓に入れれば副葬品である。副葬品の有無・種類は時代・文化を特色づける。男女,階層によって異なることも多い。副葬品には,日用の道具・容器や武器をそのまま転用する場合,来世の生活用具として特別につくる場合,実物に代わって模型(中国古代の明器(めいき))を入れる場合がある。死者が生前に身につけていた装身具をそのままつけて葬るほか,特別に衣装,装身具をつくることもある。古代中国の金縷玉衣(きんるぎよくい)はその衣装,葬玉(そうぎよく)は死者用の玉(ぎよく)である。鹿児島県種子島の弥生時代の墓地,広田遺跡で出土した貝製の装身具には,生前着用のものと埋葬用のものとが区別できる。また,死者に仮面をかぶせることも多い(エジプト,ミュケナイ,エトルリア,ローマ,遼など)。特殊な副葬品として,中国では漢代以来,日本では奈良時代の墓に2例,来世の土地所有権を保証する買地券(ばいちけん)を入れたものがある。
死者に添えて人,家畜を埋めるのは殉葬(じゆんそう)である。エジプト第1王朝ジェセル王墓に伴う墓には女官275人,侍臣43人が殉葬されていた。イラクのウル王妃墓では入口に6人の男,墓道に68人の盛装した女官が埋められていた。中国では河南省安陽武官村の殷の大墓には45人の殉死者があり,これとは別に埋葬に際して200人以上が犠牲としてささげられていた。春秋・戦国以降はもっぱら馬を殉葬する(車馬坑)。ロシアのクバン川流域コストロムスカヤのスキタイの墳墓(クルガン)では,22頭の馬が殉葬してあった。日本では考古学的には殉葬は確認されていない。殉死に代わって人や家畜をかたどった模型(中国の春秋・戦国以来の俑(よう))を副葬することもある。このほか古代中国では邪悪をはらうため怪奇な像,鎮墓獣,魌頭(きとう)を墓中に納めている。
墓には1人ずつ葬ることが多い。しかし,一度に2人以上を葬ったとみられる場合もある。数人,十数人,数十人,ときには100人に及ぶこともある。ヨーロッパ西部では新石器時代の終りから青銅器時代にかけての墳墓に,多数の人骨が見いだされている。集葬墓collective graveと呼ばれる。フランスの旧石器時代の巨石墓,サン・ユジェーヌSaint Eugèneでは一つの墓室に300体を葬っていた。日本の古墳の横穴式石室には十数体を葬った実例(愛媛県権現原第2号墳)がある。横穴式石室の場合は,何世代もの長期にわたって墓として活用が可能であって,次々に追葬(ついそう)された結果,この人数に達したものとみられる。本来,2人一組で葬ることを前提としてつくった墓室は夫婦室と解釈される。日本では奈良県明日香村の牽牛子塚(けごしづか)古墳がその好例である。
移住の生活を送る人びとは死者をその場その場で葬るから,共同墓地がない。生活が定住的になると,住いと別に共同墓地が形成されることが多い。ただし定住農耕民にも共同墓地をもたない者がある。西アジアの新石器時代の農民たちは,遺体を家や祠堂shrineの床下に埋葬することが多かった。ただし頭骨のみは家の中で保管することもあった。ヨルダンのイェリコではその頭骨をセッコウで肉付けしている。ハンガリー新石器時代のタイスTheiss文化においては,男は右横臥,女は左横臥の屈葬であり,ヨーロッパ新石器時代の多くの文化においては,男は闘斧などの武器や,男に特有の装身具を,女は女に特有の装身具を副葬品としている。共同墓地においては遺体の姿勢・方位や副葬品の種類・有無,および骨の人類学的検討による性別・年齢別の判定とによって,その集団の社会的構成や葬られた人びとの社会的位置を追究できる可能性もある。岩手県二戸市上里遺跡(縄文時代前期)では袋状竪穴の底から7体の人骨が出土し,これらは永久歯の歯冠近遠神経の研究から夫婦とその子どもたちで,一組の二卵性双生児を含むという興味深い想定が下されている。また九州北部の弥生時代の墓地においては,中国・朝鮮製の鏡や青銅器を副葬品としてもつ被葬者が,副葬品をもたない他の被葬者と同じ墓地に同種類の甕棺(あるいは木棺)に葬られており,副葬品をたくさんもった被葬者が,あくまでも他の人びとと同じ集団の一員をなしており,隔絶して他の人々の上に立っていたのではないことが想定できる。
壮大な規模をもち豊富な副葬品を伴い,場合によっては殉葬を伴う墳墓は,絶対的権力を手中に収めた首長あるいは王の墓と理解されている。また壮大な墳墓の周辺に群がる小墳墓は陪冢(ばいちよう)と呼ばれ,前者に付属するものともいわれる。アルプス以北のヨーロッパでは新石器時代から青銅器時代にかけての大規模な墳墓,とくに集葬墓はただちに階層上部の人びとの墓ともいいがたく,確実な首長墓の出現は鉄器時代(ハルシュタット文化)の到来を待たなければならない。
試みに農業開始から王墓出現までに経過した年代を炭素14法で比較すると,西アジアではイラクのウルの王墓(前4千年紀初め),中国では殷の大墓(前1500年),秦始皇陵(前210年)出現までともに数千年,エジプトではピラミッド(前2500年)出現まで2000年を要している。これに対して日本では,応神・仁徳天皇陵と伝える大古墳(5世紀)出現まで稲作農業開始普及から1000年未満である。文明の中心と周辺との経過を安易に比較できないとはいえ,世界的規模の王陵の短期達成には目をみはるものがあり,米の生産力の偉大さを示唆するものがある。
墳墓は盗掘される運命にある。エジプトのピラミッドはそれを予想して偽の入口を設けたが,しかし難を免れることはできなかった。古代中国では,前王朝の王墓の破壊は副葬品という財宝の押収であるとともに,新しい支配権の確立を誇示するための行為でもあって,あからさまに行われた。項羽が始皇陵を破壊し数ヵ月にわたってそれが燃え続けたことは有名である。
→古墳
執筆者:佐原 眞
日本では地上に墳丘を備えた墓の意味に墳墓を用いるが,墳丘をもつものと墓標などをもつ墓の両者を包含した意味に使うこともある。ただし日本考古学において,古墳とは4~7世紀日本に巨大な墳丘を築いたものに限って用い,その時代を古墳時代と呼んでいる。
素掘りの浅いくぼみが先土器時代の遺跡から検出されることがあり,遺体を埋葬するために掘った穴,すなわち墓壙(ぼこう)と考えられている。しかしこうした遺跡からの人骨出土例はなく,まだその葬法については明らかではない。
縄文時代を通じて,素掘りの穴に遺体を納めただけの簡単なものが一般的である。日本では,竪穴住居内に埋葬する風習はないが,住居に近接した貝層や包含層に穴をうがって墓としたものはしばしばみられる。これに対し住居集落とは別の地域を墓域とすることもある。墓壙を埋めたのち,頂部に礫を並べたり,あるいは積んだりする例があるが,墓壙群を円形の土堤(径30~75m,現状の高さ0.5~5.4m)でかこんだ周堤墓(環状土籬(かんじようどり))や立石を用いた径数十mに及ぶ環状列石墓(ストーン・サークル)などが北海道,東北から中部日本にかけて知られる。遺体を河原石を用いて長方形に積み囲んだ棺(東日本の後・晩期)や,木棺(東北の晩期)に納めることも行われていた。棺として壺棺,甕棺も多く用いられた。青森県の後期の70~80cmもある大型壺棺は洗骨用ともいわれている。後期末から晩期にかけての合口(あわせぐち)甕棺,深鉢単棺は西日本にも広くみられる。遺体は腕,脚を折り曲げた屈葬が多いが,一部には伸展葬もみられる。埋葬に際して,遺体を樹皮やアンペラ状編物で包んだもの,編布状衣服を着用させたものなどがあるが,胸や頭に石を抱かせたり土器をかぶせたものなどもみられる。また,当時の葬送儀礼をしのばせるものとして,遺体に各種装身具を着装したもの,石棒,石斧,石鏃などを副葬したもの,遺体を丹土や朱でくるんだものなどが知られる。墓標は木製その他のものでつくられた可能性がおおいにあるが,列石,配石以外はつまびらかでない。
弥生時代の初め,朝鮮半島南部の墓制である支石墓(南方式支石墓)が伝えられる。亀甲状に上部のふくらんだ板石(長径1.5~2m)を数個の小さな石で支えたもので墳丘はない。支石墓は九州北西部に盛んで中期に及んでいる。前期末には九州北部を中心に甕棺が多く用いられるようになる。甕棺は高さ数十cmの大棺を単棺で倒立して用いるもの,二つの甕を合口,呑口(のみくち)などに組み合わせるもの,甕に鉢で蓋をしたものなどの各種の埋葬法がみられるが,垂直に掘ってつくった穴の底の一方をさらに斜めに掘り下げ,これに下棺を入れ,甕や鉢,石などで蓋をするものが一般的である。ほとんどが屈葬となるが,なかには水平に甕を合わせ,中に手足ともに伸ばした伸展葬の形をとることもある。甕棺は中期に九州全域にひろがるが,後期には九州北部に分布が縮小する。素掘りの〈土壙墓〉はより広い範囲にひろがっており,山口県土井ヶ浜遺跡のように墓壙の底の四隅に人頭大の玉石を配したもの,同県梶栗浜遺跡のように墓壙上に短い長方形に配石し,土器を供献したものなどもある。素掘りの長方形の穴に板石数枚で蓋をした〈石蓋土壙〉も九州北部を中心に,前期から長い期間つくられる。
九州北部,近畿地方では前期から大きな板を組み合わせた木棺が用いられ,近畿地方ではこの風習は後述する方形周溝墓の主体に用いられて中期まで行われる。近畿地方で前期からつくられる方形周溝墓は,平面方形ないし長方形(1辺10m内外)の盛土(高さ1m前後)の周囲に溝をめぐらし,盛土上に木棺墓,土壙墓,壺棺墓などを設けたものであって,東海地方で中期,関東地方で中期末,九州では古墳時代初期につくられる。溝を掘らない墳丘台状墓(方形台状墓)が発達する吉備地方に,方形周溝墓がないことは注目される。おもに中部以東の墓制として壺棺墓がある。近畿地方や山陰にもみられるが,大型壺を穴に直立させて埋め,石や土器片で口に蓋をしたものが多く,底部に近い所に1ヵ所穿孔したものが多い。関東地方から東北地方南部にかけては数個の壺を一つの穴に埋めることが多く,再葬墓すなわち洗骨の風習があったのではないかと考えられている。関東では方形周溝墓の風が伝わるとこの習俗はなくなる。東北地方北部では縄文時代晩期後半から壺棺の習俗が始まり後までも続く。洗骨の習俗の明確なものは鹿児島県種子島の広田遺跡の例などで,この地から南西諸島の今に続く洗骨の習俗とのかかわりはまだ明らかでない。
執筆者:坪井 清足
弥生時代の墓は,縄文時代と同じように集団墓地を形成することが多い。それは地域と時期によって多様な変化をみせる。たとえば九州北部では甕棺墓,箱式石棺墓,支石墓が,畿内やその周辺では箱形木棺墓が一般的である。また関東ではいったん埋めた遺体を壺に納め直す再葬墓が,その地の弥生時代の中期中ごろまで行われた。一方,溝と若干の盛土によって周囲から区画された墓も弥生時代前期末に畿内でつくられ,以後弥生時代を通じて各地で営まれるようになる。その代表は方形周溝墓といわれるもので,方形の各辺に溝を掘り,その排土をもって盛土したものである。数基,数十基が群在することが多いが,滋賀県の服部遺跡などでは,数百基も連なって広大な土地を占める集団墓地となっている。方形周溝墓の埋葬施設の大部分は木棺で,副葬品を欠くものが多いが,まれに玉類や鉄器がみられることがある。弥生時代中期後葉になると,一部の地域で集落から離れた丘陵や山の上に墳丘をもつ墓が出現する。周溝をもつものも,もたないものもある。後期も後葉になると,この墳丘墓は西日本各地でつくられるようになり,なかには1辺30mを超えるもの,径40mに達する大規模なものも出現する。また前方部の祖型とみられる突出部を付設するもの,葺石の先駆となるような貼石(はりいし)を施すもの,埴輪の原型としての特殊器台形土器,壺形土器を埋葬祭祀に用いるもの,短小ながら割竹形木棺や竪穴式石室を備えるものなどが現れ,個々の要素としては前方後円墳に著しく接近をみせる(方形台状墓)。さらに中心埋葬の卓越もみられ,墳丘の大型化,その他の祭祀機能の整備とともに,首長の神格化が,集団間,地域間の不均等を伴って始まっていたことを示している。しかしながら,こうした動きも,四隅突出形墳丘墓と貼石は主として山陰に,特殊器台形土器,壺形土器と竪穴式石室は主として吉備にみられるというように,強い地域性をみせている。
前方後円墳はこうした各地の動きの統合のうえに,畿内中枢の勢力を軸として創出されたものと考えられるが,それは上にみた弥生墳丘墓の示す地域性をこえ,普遍的な墳制として各地に波及していく。最古の前方後円墳のもつ特色は,(1)狭いくびれ部に対し前面がひらく突出部の頂に方形壇が設けられ,前方部として整備されていること,(2)長大な割竹形木棺とそれを納める竪穴式石室の築造,(3)副葬品として鏡,武器,生産用具が納められること,なかんずく舶載三角縁神獣鏡の量的副葬指向がみられること,(4)形象化した土器として器台形埴輪,壺形埴輪ないし壺形土器が配置されることなどがあげられる。おそらく前方後円墳と同時に前方後方墳,円墳,方墳なども,首長連合内の格差を表現するものとして創出されたが,格差はまた棺,室の構造や規模,副葬品とくに後漢鏡や三角縁神獣鏡の質や数などにも表現されたと思われる。最大の前方後円墳は,初め大和に集中し,次いで河内,和泉に,最後に再び大和に築かれたが,その間に各要素は変化していった。墳形では前方部はしだいに高く大きくなっていったが,終末にはまた低くなった。棺は長さを減じ,長持形を呈する重厚な石棺に,次いで家形石棺に変わる。石室もそれに応じて変化し,古墳時代後期には横穴式石室となる。副葬品も変遷し,仿製(ぼうせい)鏡と碧玉製腕飾類の盛行の後,武器,武具,生産用具の多量副葬,馬具類,やがて多彩な装身具類や土器類がこれに加わる。前方後円墳以下の古墳についても,その影響下にほぼ準じた変遷をたどる。古墳時代前期後葉から後期初頭には,方墳,円墳などの小型古墳が特定地域に増大するとともに,畿内中枢と東国の一部を除き大型前方後円墳の築造が停止する。このことは,集団成員の中の不均等の進展と畿内中枢勢力の全土に及ぶ圧倒的卓越,すなわち各地首長勢力の決定的衰退を物語る。古墳時代後期中葉以後,おもに横穴式石室をもち群集墳と呼ばれる小墳群や横穴群が各地に営造されるようになり,その数はおびただしく全土で10万基を優に超える。このことは,古墳祭祀を全土に広く深くひろめることによって,かつておもに首長層だけをとらえていた畿内大王勢力を頂点とする擬制的同族関係を各地集団の有力成員にまで及ぼし,大王の支配がより直接的になったことを示す。前方後円墳の築造はこのような動きのなかで,特別な事情のあった東国の一部を除き,6世紀末葉に近いころ廃絶し,政治体制の新しい一歩が踏み出されることになる。
→古墳文化
執筆者:近藤 義郎
7世紀後半に仏教風の火葬が一般化し,金属器や土器,陶器を用いた骨壺が墓に納められる。火葬墓には火葬地をそのまま墓地にした場合と,火葬地と墓地が別な場合がある。太安麻呂(おおのやすまろ)墓や小治田安万侶(おはりだのやすまろ)墓は前者で,威奈大村(いなのおおむら)墓は任地で火葬したものを本貫地に帰葬した例である。7世紀末から9世紀初めにかけての火葬墓には,まれに墓誌が伴う。上記の3例は,いずれも墓誌の出土によって被葬者が判明したものである。墓誌には短冊状の金属製墓誌(太安麻呂墓誌,小治田安万侶墓誌)のほか,塼(せん)や石に刻銘したもの,蔵骨器に銘文を刻したもの(威奈大村墓誌)などがある。
9世紀以降は,穴を掘って木棺を納めた墓も各地で行われる。特殊なものとして,伊豆地方の横穴に小型の石棺に火葬骨を納めたものがあり,やや時間的隔りがあるが,鎌倉時代の矢倉(やぐら)はこの系統を引き継いだものではあるまいか。岡山県にみられる入母屋(いりもや)屋根形の蓋をもつ小型陶棺なども,火葬骨用の蔵骨器であろう。
平安時代になると,王侯貴族は墓に多宝塔などの木造供養塔を建てたり,あるいは中尊寺金色堂などのように方形堂を建てたが,平安末から石塔がこれに代わるようになる。多層塔,五輪塔,宝篋(ほうきよう)印塔,多宝石塔などの石塔が墓標として用いられ,塔の内部あるいは下層に蔵骨器を収納することが一般的となる。板碑(いたび)は供養塔として用いられたが,鎌倉時代末以降,とくに室町時代には墓標ともなり,関西地方の一石五輪や半截五輪,地蔵などとともに墓碑として一般的に用いられるようになる。また中世に僧侶の墓標として輸入された無縫塔(卵塔(らんとう))がある。江戸時代初期には位牌状の墓碑などがつくられるようになり,今日の方柱状墓碑へと変化していく。
執筆者:坪井 清足
考古学では,墳丘の出現をもって階級社会の発生や権力の拡大の指標とする見方がある。中国においては,春秋時代まで墓上に廟堂ともいうべき建築を建てることはあっても,墳丘を築いた例は確認されていない。新石器時代の共同墓地でも,周囲の墓から隔絶した墓壙と副葬品をもつ墓が認められるが,殷周時代になると,支配層の墓地と被支配層の墓地が分離する傾向がはっきりと現れてくる。支配層の墓地にあっては,竪穴墓壙,木槨,木棺などの大きさ,殉葬墓や車馬坑あるいは副葬品の多寡によって,身分社会の格式が明確に規制されていることがうかがわれ,これらは河南省安陽の殷王陵群(殷墟)や,西周時代における封国の王墓で認められるところである。
戦国時代に出現する墳丘をもった墓,すなわち墳墓の初源については,二つの見方がある。一つは河北省平山の中山王墓のように,墓全体を1個の高層建築とするもので,城壁をめぐらして死後の宮殿を形成し,その中心に高い土台を築いて頂上に廟墓を建てる。いま一つは,本来,天地をまつった祭壇を,王陵に導入することによって王権を神格化したのではないかとするものである。しかし,現在のところどちらともいえない。いずれにせよ墳丘の出現によって,それまで規模,副葬ともに優れたものをもちながら共同墓地に葬られてきた王陵が,王と王后のために一つの陵園を形成することになり,ここに戦国時代における王権の絶対性をかいま見ることができる。秦の始皇陵はその頂点ともいうべきものであり,一個人のために方台形状の墳丘を築き(東西345m,南北350m,高さ76m),周辺に広大な陵園を設定し,その城壁外各所に多くの殉葬墓,兵馬俑坑を配置する。
前漢の帝陵は秦の制度を引き継ぎ,さらに発展させた。皇帝と皇后の墳丘を中心に,周辺に無数の眷属(けんぞく)や功臣の陪葬墓を配し,陵墓を管理する特別市街地ともいうべき陵邑(りようゆう)を設置する。前漢の陵園制は,以後の王朝に受け継がれていくのであるが,国力の優劣が墓の規模に敏感に反映しており,前漢の帝陵に比肩する墳丘を築くのは,唐代をおいてほかにない。また漢代には人工的な墳丘を築くほか,自然の山を一つの陵園にあてる葬法が出現する。河北省満城の中山王墓(満城漢墓)がそれである。ここでは山腹から岩盤をくり抜いてトンネル式の墓室(洞室墓)を開削する。この方式も後代に受け継がれ,唐の昭陵,乾陵は,その規模をさらに拡大したものである。
帝王陵への墳丘の導入によって,高級官人や有力豪族層の墓も急速に墳丘を築くようになるが,前漢代には墳丘の高さが法律によって規制された。しかし,国家権力が相対的に弱くなる後漢代になると,地方において大きな墳丘と墓室を築くようになる。
→帝王陵 →陵墓
執筆者:町田 章
朝鮮半島では漢武帝の楽浪郡設置以降に,截頭方錐形の墳丘と墓室を築くようになる。これらは中国の植民地官人の墳墓として築かれたもので,前漢末ごろから営造が始まる。地下には木材で槨室をつくり,そこに木棺を納めた。木棺には装身具をまとった死者を置き,その周囲に副葬品を納めた。三国時代に入って,高句麗では方墳が盛行する。前期から中期にかけて,王都であった桓仁や輯安(しゆうあん)(現,中国吉林省集安)の地で,積石塚が築かれた。前期の積石塚は小規模な河原石積みで群集したが,中期には,大規模な切石積み積石塚が散在するようになる。埋葬施設は,前期には棺・槨の直接埋葬であったものが,中期には横穴式石室へと変わる。4世紀末ごろの輯安の将軍塚は,王陵級の墳墓であって,最も発展した積石塚の一つといえる。ピラミッド状に切石積みで7段に築成し,基底部の1辺は約30mを測る。4世紀代にはまた,積石塚に加えて石の代りに土盛りによって墳丘を築いた,いわゆる封土墳が現れ,内部の横穴式石室には壁画が盛んに描かれた。積石塚は5世紀に入ると消滅し,代わって壁画封土墳が輯安や後期の王都平壌付近などで築造された。
百済では,王都の周辺などで墳墓が築造された。前期の王都漢山(ソウル付近)の墳墓は,石村洞から可楽洞にかけて分布する。土壙,甕棺などを内部主体とする方形の封土墳,おそらく横穴式石室を包蔵したと推測されるピラミッド状に割石積みで3段に築成した方墳,そして横穴式石室を内部主体とする封土墳などがみられる。中期の王都熊津(ゆうしん)(公州)の宋山里,後期の王都泗沘(しひ)(扶余)の陵山里(陵山里古墳群)では,王陵級の横穴式石室墳が知られる。宋山里では武寧王陵のように塼築墳(塼室墓)が,また陵山里では東下塚のように壁画墓がそれぞれ含まれる。王都を離れた地域では墳丘は未発達で,地下に竪穴式石室,横穴式石室,甕棺などを埋設するだけのものが多く,しかもそれらは,しばしば群集して営まれる。
新羅では,王都慶州などで円墳やときには双円形の,いわゆる積石木槨封土墳が盛行した。慶州盆地の平地に築かれた墳墓をみると,三国のなかでは最も雄大な墳丘が発達している。また,木棺を納めた木槨の周囲を石で積み,さらにその上を土や粘土で被覆するといった手のこんだものである。数十基の墳墓は王陵級のものであるが,周辺部では竪穴式石室や,ときに甕棺を納めた中小の墳墓が築かれ,その数は数百基に上る。6世紀に入ると横穴式石室も出はじめる。しかし王都を離れた地域では,中小の竪穴式石室墳が多い。加羅では,墳丘の有無は不明であるが,慶尚南道の礼安里でみるように,初期には土壙墓が,やがて竪穴式石室墓がそれぞれ群集する。慶尚北道の池山洞では,顕著な墳丘をもち,内部に竪穴式石室を数基包蔵するものがあるが,慶尚南道の三嘉古墳群のように,竪穴式のほかに横穴式の石室を同一墳丘に含むものさえ現れる。
統一新羅時代は,仏教が隆盛した時期にもあたり,王や貴族に火葬を採用するものが多くなる。しかしながら依然として,慶州の盆地縁辺の丘陵部や,慶州盆地から少し離れた平地部で,王陵級の円墳が築かれることも少なくなかった。8世紀に入ると,墳丘の裾に護石(化粧石)をめぐらしたり,その周囲もしくは前方に石人石獣を立てるなど,外部装飾を施したものが若干あり,その背景に唐文化の影響を見いだす。なお韓国,朝鮮民主主義人民共和国では古代の墳墓に対して〈古墳〉の名称が用いられている。これらは統一新羅までのものについていい,高麗,李朝のものは,墳丘をもっていても〈古墳〉と呼ばない。
執筆者:西谷 正
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死者を埋葬する施設の総称。埋葬の方式として、遺体を埋置する場合と、火や風雨などによって肉体の処理を済ませたのち残余の骨を埋葬する場合とがある。また、土中にいきなり遺体を埋葬するもっとも簡便な方式は、人類が初めて死者を葬るようになった中期旧石器時代にさかのぼるが、死後観念の発達とともに、木製や土製や石製の棺に遺体や遺骨を納め、あるいはさらに棺を覆う槨(かく)や室や封土などの構造物を設けたり、死者に十分な器物をそえる厚葬の風がみえるようになる。そうして、民族、文化、階級の相違により、きわめて多様な墳墓の形態が生まれた。そのなかで、エジプト、中国、日本、朝鮮、さらにはスキタイ民族の南ロシアでは、厚葬の極みともいえる巨大な墳墓の造営をみた。その一方、メソポタミアのように、墳墓よりは神殿の造営に力点を置いた地域があることは、世界史上における古代王権の性格の相違を考えるうえで興味深い。
[川西宏幸]
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…遺骸を埋葬する場所,またその施設を墓という。形態的には土を高く盛った墳墓(冢(ちよう),塚(つか))に対して墓は地下に埋葬し墳丘をもたないものを指すが,一般に墓という場合,墳墓はもちろん,死体を遺棄した場所や,崖などに穴をうがって埋葬したもの,また墓石などの石碑類も意味することが多い。旧石器時代以来,人類はさまざまな方法で死者を葬ってきたが,先史時代における墓の形態や葬法と,東アジアを中心とする巨大な墳丘をもった墓については,〈墳墓〉の項目を参照されたい。…
※「墳墓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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