大城村(読み)おおきむら

日本歴史地名大系 「大城村」の解説

大城村
おおきむら

[現在地名]北野町大城

現北野町の南東部、筑後川中流域に位置する。金島かねしま放水路の開削により筑後川を挟んで南北に二分された。日比生ひるお豊比とよひめ神社(現豊姫神社)境内から銅矛や古瓦・土器・陶器などが出土(太宰管内志)中筒井なかつついの弥生時代の遺跡では甕棺墓・石棺墓・祭祀土壙が確認された。塔木とうのきに「梶原さん」と俗称される梶原かじわら古墳がある。草野氏の一族大城氏は当地を名字の地とし、寛元元年(一二四三)高良こうら(現久留米市)領への狼藉を訴えられた在国司大城永幸(同年一二月三日「六波羅召文御教書案」高良山文書/久留米市史7 資料編古代・中世)、正慶二年(一三三三)鎮西探題より山本やまもと(現久留米市)内の畠を高良玉垂こうらたまたれ(現同上)に引渡すよう命じられている大城又次郎入道(同年二月二五日「鎮西探題御教書」隈文書/久留米市史7 資料編古代・中世)、康永二年(一三四三)南朝方の菊池武茂らとともに竹井たけい(現久留米市)に拠った大城藤次らが知られる(同年七月五日「龍造寺家平軍忠状」龍造寺文書/南北朝遺文(九州編)二)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に半不輸として「大城村」がみえ、凶徒押領と記される。応永二年(一三九五)閏七月二五日の天満宮領筑後国所領注文(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)にも天満宮の半不輸の所領としてみえる。

大城村
おおじろむら

[現在地名]身延町大城

波木井はきい川の支流大城川上流に沿って立地する。北東は門野かどの村、東は相又あいまた村。枝郷として大城川と湯沢ゆざわ川の合流点付近にたいらがあり(甲斐国志)、現在は湯平ゆだいらと称される。古くから安倍あべ峠を経て駿州うめしま(現静岡市)に通ずる間道沿いに位置し、村名は間道を守る城砦に由来するという(同書)。永禄九年(一五六六)閏八月二四日の穴山信君判物(南松院文書)によると、信君が南松なんしよう院に「大城之郷本年貢并夫銭」を寄進しているが、郷全域が南松院領であったかは不明。

大城村
うふぐしくむら

[現在地名]大里村大城おおしろ

大里うーざとう間切の東南端に位置し、西は目取真みどうるま村、東は佐敷さしち間切新里しんざとう(現佐敷町)、南は玉城たまぐすく間切糸数いちかじ村・富名腰ふなくし(現玉城村)。絵図郷村帳・琉球国高究帳には玉城間切大城村とあり、「琉球国由来記」には大里間切大城村とみえる。同名の村が中城なかぐしく間切・八重山島の大浜ほーま間切にある。琉球国高究帳では稲福いなふくと並記され両村の高頭一八八石余、うち田一二六石余・畠六一石余。間切集成図には大城うふぐしく旧城の南に描かれ、井が集落の西にある。

大城村
うふぐしくむら

[現在地名]北中城村大城おおぐすく

熱田あつた村の南西にあり、南はとうまい(現中城村)に接する。南は中城なかぐすくグスクのある丘陵の北側にあたる。絵図郷村帳に大城村とみえる。琉球国高究帳によれば高頭九三石余、うち田五六石余・畠三六石余。脇地頭の任職は確認できない。村内には大城うふぐしくノ嶽二御前、小嶽・大城巫火神があり、いずれも大城ノロが祭祀を管掌した(琉球国由来記)

大城村
ふうぐすくむら

[現在地名]和泊大城おおじろ

内城ぐすく村の南東に位置し、石橋いしばし川が集落内を南流する。西部にはウンテ山がある。世乃主由緒書(沖永良部島郷土史資料)によれば、地内の川内ほうちの百が世之主に築城の位置の適地として古城地を指し示したと伝え、地名は当地に豪族が居住し、グスクを構えていたことに由来する可能性がある。

大城村
うーぐすくむら

冊封使録の「中山伝信録」や「琉球国志略」に高嶺たかんみ間切の村名としてみえるが、惣地頭の大城殿内の家名によったものと思われる。「琉球国由来記」の高嶺間切与座ゆざ村の項に大城之嶽がみえる。現大里の後原おおざとのくしばるにある大城うーぐすく森とか二股たまたーグスクとよばれている場所が間切集成図に描かれ、大城うーぐすく旧城と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報