大戸村(読み)おおどむら

日本歴史地名大系 「大戸村」の解説

大戸村
おおどむら

[現在地名]吾妻町大戸

厚田あつだ村の西南にあり、榛名はるな山西麓の村。掃部かもんヶ岳(一四四九メートル)から居鞍いぐら(一三四〇・一メートル)を結ぶ西方尾根の西側斜面に位置する。大戸道(信州道)が通り、大戸宿が賑った。

永正六年(一五〇九)連歌師柴屋軒宗長は「東路の津登」に「大戸といふ所、海野三河守宿所に一宿して、九月十二日に草津へつきぬ、同行あまたありしまで、馬人数おほく懇切の送りども成べし、廿一日、草津より大戸へ帰り出侍りぬ、兼約とて一座興行」と記している。同一〇年四月、箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)の長野憲業は榛名神社(現同郡榛名町)に「大戸要害令落居、憲業属本意候者、百疋之下地お榛名満行権現、末代可奉寄進候」の願文を奉じている(榛名神社文書)。永禄四年(一五六一)の関東幕注文(上杉家文書)によると箕輪衆のなかに「大戸中務少輔 六れんてん」「羽尾修理亮 六れんてん」がみえ、大戸(浦野)中務少輔は一族の羽尾氏とともに箕輪衆として長野業政に従っている。

大戸村
おおとむら

[現在地名]岩槻市大戸

大谷おおや村の南に位置し、元荒川左岸の自然堤防上に集落が形成されている。江戸時代には初期から岩槻藩領で幕末に至る。田園簿に村名がみえ、高は田方一一一石余、畑方六七石余。「寛文朱印留」には下総国葛飾郡所属として掲載されている。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)では家数三三(本百姓二七・水呑三・寺三)、人数二一〇、岩槻藩の地方支配は新方にいがた筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高二六二石余、ほかに新田高三九石余、小物成は柳原銭藍瓶役鐚二七〇文、見取場田一町二反。同年の寺社除地書上(小島家文書)によると宝蔵ほうぞう(別当を勤める香取社分を含め二反余)大聖だいしよう(四反余)・香取社・雷電らいでん社・権現社・第六天社がある。

大戸村
おおとむら

[現在地名]与野市大戸一―六丁目・大戸

中里なかざと村の南に位置する。与野領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)旗本牧野助兵衛正照は、足立郡の内で五〇〇石を与えられたが(寛政重修諸家譜)、そのなかに当村も含まれていたと考えられる。田園簿では田七〇石余・畑六六石余で、牧野領。元禄郷帳では大戸村一一〇石余のほかに上大寺じようだいじ村一四石・亀在家かめざいけ村一〇石余が高付されており、国立史料館本元禄郷帳では三村とも牧野領。天保郷帳には大戸村一村で高付され、「古者亀在家村・上大寺村・大戸村三ケ村」と肩書される。享保一五年(一七三〇)高沼こうぬま新田の開発により村内中央を高沼排水路、東・西を同用水が南流するようになり、新田四町一反余が割当てられた(「御新田開発之帳」大室家文書)

大戸村
おおとむら

[現在地名]大多喜町大戸

部田へた村の南、夷隅川左岸に位置する。北部の日影ひかげ山に山中やまなか城跡があり、山頂に空堀と土塁跡が残る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五二石。慶長二年(一五九七)の伊北庄山中郷御縄打水帳(大戸区有文書)のうちに当村分が三冊あり、田四町四反余・畑一二町四反余。寛永一五年(一六三八)には高二〇六石余が大多喜藩領で(その他は不明)、年貢は米二一石余・永一五貫文余(「年貢割付状」同文書)

大戸村
おおどむら

[現在地名]笠岡市東大戸ひがしおおど西大戸にしおおど

入田にゆうた村の東、吉田よしだ川およびその支流域にあり、南は大河おおこう村など。元禄郷帳・天保郷帳では一村としてみえるが、近世、東(組)・西(組)の二つに分れ、明治初年に東大戸村・西大戸村の二村となった。北西部、吉田川沿いの助実すけざね貝塚からは縄文時代後期の土器および屈葬人骨一体が出土している。

天和―貞享(一六八一―八八)頃成立の「小田物語」によれば、近世初頭、東大戸岡林組・西大戸僧都組・中大戸の三つに分れ、幕府領・伊予松山藩領・旗本戸川勝安領などの相給で、その後の領主もめまぐるしく変遷している。

大戸村
おおとむら

[現在地名]館山市大戸

南条なんじよう村の枝郷で南条本郷の南に位置する。汐入しおいり川の中流域にあり、同川に支流が合流する地点に展開する。郷村帳類では南条村に含まれて高付される場合が多かったが、実質的には独立した一村であったと思われる。近世の領主の変遷は南条村に同じであったと思われる。正保郷帳では高二八〇石余。字本館ほんたてへい青木あおき(現富浦町)光厳こうごん寺の寺領(高一一石余)であった。旗本本多氏支配のときには村内の飯田半左衛門が地代官を勤めている(飯田家文書)。文化一一年(一八一四)真倉さなぐら村との助郷出入や文政八年(一八二五)の日光社参に伴う人馬半高役についての経緯は南条村に同じ。

大戸村
おおどむら

[現在地名]弥彦村大戸、吉田よしだ水道すいどう

西にし川の左岸にあり、北は川崎かわさき村、東は川を隔て大田おおた(現吉田町)に接する。慶安年間(一六四八―五二)与板藩によって西方境江さかえ村から村山むらやま村を通り当村までやなぎ土手が築かれた。寛永元年(一六二四)頃から矢作やはぎ村の諸橋加右衛門によって開発が着手されたといわれ、慶安三、四年頃新田として成立したらしい。加右衛門かえもん新田とよばれ矢作村のうちに含まれていた(岩室村史)。天和二年(一六八二)独立して大戸と改称したという。元禄郷帳に矢作村枝郷として大戸新田村とみえ高二三九石四斗余。初め与板藩領に属したらしく、元禄一五年(一七〇二)幕府領となり、享保九年(一七二四)から元文五年(一七四〇)までは新発田藩預所。

大戸村
おおとむら

[現在地名]佐原市大戸

下総台地北端部、北東流する大須賀おおすか川右岸に位置する。東は山野辺やまのべ村。北部の丘陵に集落が形成され、丘陵周辺の低地や谷に耕地が広がる。中世の大戸庄の遺称地とされる。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高一千一二石余(「部冊帳」伊能家文書)。寛文四年(一六六四)の下野皆川藩主松平重利領知目録(寛文朱印留)に香取郡八ヵ村のうちとして「大戸村之内」とあり、一部が皆川藩領となっていた。

大戸村
おおとむら

[現在地名]日南町茶屋ちやや

東流する小原こばら(大戸川ともいう)沿いに位置する。南の山際を同川が流れ、左岸川沿いに水田が広がる。北東は小濁こにご村、南は日谷ひたに村。拝領高は九一石余、本免は五ツ八分。嘉永元年(一八四八)の下札(日南町役場蔵)によれば朱高九九石余(うち畑高一四石余)に対し、残高九九石余・開高三四石余、物成六七石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一三三石余、竈数一八。「伯耆志」では林一町九反余、家数一七・人数八三、鑪山として大谷おおたに山があった。寛政九年(一七九七)黒坂くろさか(現日野町)緒形家は当村内の大戸鉄穴の一部を小濁村友平から永代買得している(文化一二年「緒形家鉄穴所覚帳」近藤家文書)

大戸村
おおどむら

[現在地名]茨城町大戸

涸沼前ひぬままえ川の左岸に位置し、東は前田まえだ村。古く大畑おおはた押留おしどめが合して大戸となったという。建保三年(一二一五)の常陸国庁宣写(吉田神社文書)に「大戸長岡 両郷」とみえる。「常陸大掾伝記」によると、中世大掾氏の一族の石川清幹の長子盛幹が吉田太郎と称して大戸に居住し、のち国幹が大戸氏を名乗った。近世は寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大戸村」とみえる。天保一三年(一八四二)の検地では田畠一二一町余、分米一千二〇石余(新編常陸国誌)。「水府志料」による戸数およそ一一〇。

大戸村
おおどむら

[現在地名]一色町治明じめい

北浜きたはま川左岸の沖積地。北浜川は、矢作古やはぎふる川の中流から水を取入れ、三角州地帯に農業用水を供給し、海に注ぐ。藤原鎌足の後裔と伝える三矢喜太郎が、西尾城主本多縫殿助時代に下新居しもあらい村に来住、寛永元年(一六二四)開発したという。喜太郎は五反余の屋敷地を拝領、その子喜之助とともに北浜・北須きたすも開発し、氏神八幡宮に大塔宮を合祀して大塔村とよばれたが、のち大戸村と変わったと伝える。元禄一四年(一七〇一)の絵図には、北浜・北須を総称して北浦新郷と記されている。

大戸村
おおとむら

[現在地名]上那賀町大戸

古屋ふるや村の西、那賀川上流長安口ながやすぐちダム湖両岸の山間に位置し、北は那賀川を境に長安村と接する。海部かいふ郡に属し、古屋村の枝村。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳、天保郷帳などには記載がなく、海部郡の木頭きとう(現木頭村・上那賀町)の高に含まれるとみられる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では古屋村のうちに大戸村がみえ高一九石余。「阿波志」には古屋村の項に支落として村名がみえる。旧高旧領取調帳には記載がなく古屋村の高に含まれると思われる。

大戸村
おおどむら

[現在地名]白石町大字福吉ふくよし字大戸

現白石町東部、六角ろつかく川南岸に位置する田園の散村。正保絵図に村名がみえる。

平安時代以後に開発された干潟や葦原の湿地帯であった。この時代の開墾は江湖の澪筋みおすじを残して行われており、墾田の永久私有が認められていたから、豪農の私領であったと思われる。この地方には室町時代頃から干拓の組が設立され、組の責任者を舫頭ふうつう(もやいがしら)とよび組員を「搦子からみこ」とよんだ。

大戸村
おおどむら

[現在地名]園部町大戸

高屋たかや村の東にある南北に細長い村。北は大堰おおい川を越えて佐切さぎり村に対し、東は熊原くまはら村、南は神田こうだ(現八木町)。村の大半は山地で、中央部に南北に細長い大見おおみ谷があり、この谷と大堰川沿いに耕地がみられる。郡内に同名の村があるので(現日吉町)東大戸ひがしおおど村ともよばれた。

大戸村
おおどむら

[現在地名]秋田市上北手大戸かみきたておおど

大杉沢おおすぎさわ村の西、猿田さるた川支流の大戸川に沿った丘陵南麓に位置する小集落。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三三石とある。元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領変地其外相改候目録(県立秋田図書館蔵)に「大戸村、右之村古絵図ニ高附御座候、今度相改申候処ニ高無御座候ニ附新絵図ニ相除申候」として大杉沢村に合併、正徳年間(一七一一―一六)再び分村独立する(六郡郷村誌略)

大戸村
おおとむら

[現在地名]鶴岡市大荒おおあら

上京田かみきようでん村の南、大戸川の西岸にあり、北西は荒沢あらさわ村。「筆濃余理」には「往昔、青砥ガ関トテ関ヲ居シ所也ト云リ」とある。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ高一一一石余。正保郷帳では田高一一〇石余・畑高一石余、柴山がある。弍郡詳記では高一一八石余、免五ツ四分二厘、家数九。慶応元年(一八六五)小物成所割直しの時、家中の安倍氏が武藤氏時代の旧領であることを理由にその割当てを願出て許され、安倍甚兵衛に五〇石分の割当てがなされた(「参考安倍系譜」鶴岡市郷土資料館蔵)

大戸村
おおとむら

[現在地名]市原市大戸

平野ひらの村の南にあり、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一二四石。正保国絵図では高一三四石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。天和三年(一六八三)より元禄一二年(一六九九)まで高滝藩領であったとされる(文政一〇年「高滝地頭替年数」宮原家文書)

大戸村
おおどむら

[現在地名]鉾田町大戸

徳宿とくしゆく村の北に位置し、七瀬ななせ川が村を二分して北浦へ注ぐ。天正一九年(一五九一)の佐竹氏進出に伴い一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百拾五石九斗六升 太戸」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高二四八石余で、横地・青木両氏が支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報