城町(読み)いばらきまち

日本歴史地名大系 「城町」の解説

城町
いばらきまち

面積:一二〇・八四平方キロ

北は水戸市に接する。町の中央を西から東に流れる涸沼ひぬま川・涸沼前ひぬままえ川を境にして、その南と北に台地が広がる。両河川流域と涸沼沿岸一帯は大部分が水田地帯をなし、北部は起伏のある台地が東西に続き、大半が畑地山林も点在する。南部も同様。米作が主産業であるが、近年、より収益性の高い蔬菜栽培・果樹園芸・養豚・酪農が盛んとなる。また従来からの地方中心的商業に加えて、工業開発も目指している。

明治二二年(一八八九)の町村制施行時に東茨城郡内に長岡ながおか(近藤村・大戸村・常井村・前田村・長岡村・谷田部村・馬渡村・小鶴村が合併)上野合かみのあい(南島田村・神谷村・秋葉村・小幡村・下座村・鳥羽田村・上雨谷村・下雨谷村・生井沢村が合併)川根かわね(越安村・蕎麦原村・駒渡村・野曾村・南栗崎村・南川又村・木部村・上飯沼村・下飯沼村・飯沼新田・下土師村・奥谷村が合併)が生れ、昭和三〇年(一九五五)長岡村は長岡町となった。

城町
じようまち

[現在地名]秋田市旭南きよくなん二丁目の一部

四十間堀しじつけんぼり町の南に続く、上鍛冶かみかじ町の西。

菅江真澄の「水の面影」に、「慶長・元和のころならぬ、其肆宿やどなごりなう久保田にひきうつされて、今はみなそこに住みて」とあり、後城町はいまも土崎港南つちざきみなとみなみ一丁目の字名に残る。「久保田のおもかげ」所収の「船木氏旧記」(県立秋田図書館蔵)に「慶長八癸卯年五月久保田城御築立、町並平均の儀被仰出、先祖靫負右普請方支配被仰付(中略)四月二十三日久保田へ引越、居下土地葭原平均、表口三十間永久御除地に被成下、半右衛門(梅津憲忠)様、内膳(渋江政光)様御立会之上被仰付、港町名目を以城町と可申唱被仰付」とあり、「港町名目を以城町」と称すことで、二つの所伝は一致する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報