大橋宗桂(読み)オオハシソウケイ

デジタル大辞泉 「大橋宗桂」の意味・読み・例文・類語

おおはし‐そうけい〔おほはし‐〕【大橋宗桂】

[1555~1634]安土桃山時代・江戸初期の将棋棋士。江戸時代の将棋家元大橋家の始祖。京都の人。旧名は宗慶。織田信長徳川家康に仕え、幕府の将棋所つかさとなる。

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精選版 日本国語大辞典 「大橋宗桂」の意味・読み・例文・類語

おおはし‐そうけい【大橋宗桂】

  1. 将棋家元三家の一つで、江戸初期から一二代まで続く。
  2. [ 一 ] 初代。初名宗慶。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて将棋所名人となる。九段。寛永一一年(一六三四)没。
  3. [ 二 ] 二代。初名宗古。将棋所名人となり、棋道治式三箇条を定める。九段。承応三年(一六五四)没。
  4. [ 三 ] 五代。初名宗銀。伊藤家より出て大橋家を再興し、将棋所名人となる。九段。正徳三年(一七一三)没。
  5. [ 四 ] 八代。初名宗寿。伊藤宗印の子。大橋家を継ぎ、棋道の逸材といわれる。八段。安永三年(一七七四)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「大橋宗桂」の意味・わかりやすい解説

大橋宗桂 (おおはしそうけい)
生没年:1555-1634(弘治1-寛永11)

初代将棋名人。京都の町人出身で宗慶といい,後に宗桂と改名。将棋が上手であったために織田信長,豊臣秀頼,徳川家康,徳川秀忠遊興の奉仕として召し出され,本因坊算砂らと将棋を指して巧芸を披露した。江戸幕府成立後,将棋指衆として召し抱えられ,碁所より分岐した将棋所の司として初代名人になり,50石五人扶持俸禄を与えられた。これは将棋が市井の遊芸から幕府公認の技芸として認められ,民間の将棋指しが幕臣に加えられたことを意味し,将棋史上画期的なできごとであった。宗桂を祖とする大橋本家は1910年断絶するまで12代続き,そのうち2代宗古(1576-1654),5代宗桂(1636-1713),9代宗桂(1744-99)が名人となった。宗桂は将棋ルールの確立に努力し,また,詰将棋作品集の《象戯図式》を残している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大橋宗桂」の意味・わかりやすい解説

大橋宗桂
おおはしそうけい
(1555―1634)

将棋1世名人。京都生まれ。80歳で没し、霊光寺(京都深草)の桂馬の2字が刻まれた墓碑は有名。宗慶の慶を桂と改めたのは織田信長の勧めと伝える。信長に召され「将棋師」の待遇を受け、1607年(慶長12)本因坊算砂(さんさ)との平手戦が最古の棋譜として残る。将棋所名人として駿府(すんぷ)の徳川家康、江戸の秀忠(ひでただ)に招かれて将棋の芸を披露した。『象戯(しょうぎ)図式』(詰め将棋)50番を出版、現存でいちばん古い棋書である。1576年(天正4)2代大橋宗古が初代宗桂嫡男として生まれる。宗古は「二歩、千日手、死に駒を打つこと」を禁ずる3か条を示す。親子2代で将棋の基礎をつくった。

原田泰夫

『木村義雄他監修『日本将棋大系1』(1978・筑摩書房)』

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朝日日本歴史人物事典 「大橋宗桂」の解説

大橋宗桂

没年:寛永11.3.9(1634.4.6)
生年:弘治1(1555)
江戸前期の将棋棋士,1世名人。京都の生まれ。囲碁の本因坊算砂とほぼ同時代で,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康らに仕え,将棋を披露した。宗桂の名は信長から与えられたという。慶長12(1607)年,宗桂と算砂の平手戦が現存する最古の将棋棋譜とされる。相四間飛車の将棋。同17年ごろ,囲碁・将棋所を兼ねていた算砂から将棋所(江戸幕府から扶持を給せられた将棋の最高権威者)を譲られ,1世将棋名人となった。著書に詰将棋を収めた『象戯図式』がある。京都深草の霊光寺の墓は駒形の墓碑で裏面に桂馬の2字が刻まれている。長子宗古は2世名人。宗桂を祖とする大橋本家は明治末年まで12代続き,5代宗桂,9代宗桂も名人となっている。<参考文献>勝浦修『初代大橋宗桂・大橋宗古』(日本将棋大系)

(谷口牧夫)

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百科事典マイペディア 「大橋宗桂」の意味・わかりやすい解説

大橋宗桂【おおはしそうけい】

江戸時代の将棋家元,大橋本家の祖。京都の町人出身で,もと宗慶といい,後に改名。織田信長,その死後徳川家康に仕える。慶長年間に将棋所の司となり,名人となった。なお,大橋本家は1910年12代宗金が没するまで続き,2代宗古〔1576-1654〕,5代宗桂〔1636-1713〕,9代宗桂〔1744-1799〕が名人となった。
→関連項目天野宗歩将棋

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大橋宗桂」の意味・わかりやすい解説

大橋宗桂
おおはしそうけい

[生]弘治1(1555).京都
[没]寛永11(1634).3.9. 京都
安土桃山~江戸時代前期の将棋師。将棋初代名人。宗也の子。初名は宗金,のち宗慶と称したが,織田信長から桂馬の1字を取って宗桂の名を賜わったという。また豊臣秀吉,徳川家康にも謁見し,しばしば江戸にも下り将軍秀忠の前で本因坊算砂 (ほんいんぼうさんさ) と対戦した。慶長 17 (1612) 年 50石5人扶持となり,元和9 (23) 年には算砂の後任として将棋所を司る。大橋家は将棋家元三家 (大橋本家,伊藤家,大橋分家) の筆頭。宗主は代々宗桂を名のり,1910年に 12代宗桂が没するまで続いた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大橋宗桂」の解説

大橋宗桂
おおはしそうけい

1555~1634.3.9

江戸初期の著名な将棋指(しょうぎさし)。能楽師とかかわりのある京都の町衆の出身で,将棋三家の筆頭大橋本家の初代。初見は「鹿苑日録」の天正20年(1592)とみなされる。徳川家康をはじめ公家や寺社にも招かれ,駿府(すんぷ)城や江戸城内でも本因坊算砂(さんさ)と対局するなど,職業的将棋指の先駆。1602年(慶長7)に山科言経(ときつね)が宗桂の詰将棋集を天皇に献上している。12年に幕府から50石5人扶持を支給された。吉田社や神竜院などに招かれて将棋の技芸を披露していたと「舜旧記(しゅんきゅうき)」にみえる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大橋宗桂」の解説

大橋宗桂(1) おおはし-そうけい

1555-1634 織豊-江戸時代前期の将棋棋士。
弘治(こうじ)元年生まれ。京都の人。織田信長,豊臣秀吉,徳川家康らにつかえ,桂馬の使い方がたくみで信長から宗桂の号をうける。囲碁と将棋の司(つかさ)の本因坊算砂(さんさ)の弟子で,その師弟対局の将棋棋譜が現存する最古の棋譜。慶長17年算砂から将棋所をゆずられ,1世名人となる。寛永11年3月9日死去。80歳。名は宗慶。号ははじめ宗金。著作に「象戯(しょうぎ)図式」など。

大橋宗桂(2) おおはし-そうけい

1613-1660 江戸時代前期の将棋棋士。
慶長18年生まれ。大橋宗古の子。大橋本家3代。父の死後,京都から江戸にうつる。将棋所をついだが棋力は7段にとどまり,名人位は初代伊藤宗看(そうかん)にゆずられた。万治(まんじ)3年9月24日死去。48歳。京都出身。著作に「将棋曲尺(かねじゃく)」「象戯(しょうぎ)秘曲集」。

大橋宗桂(3) おおはし-そうけい

1636-1713 江戸時代前期-中期の将棋棋士。
寛永13年生まれ。初代伊藤宗看(そうかん)の子。養子にむかえられ大橋本家5代をつぐ。元禄(げんろく)4年4世名人となる。正徳(しょうとく)3年閏(うるう)5月6日死去。78歳。江戸出身。号ははじめ宗銀。著作に「象戯手鑑(しょうぎてかがみ)」「手鑑指南抄」。

大橋宗桂(5) おおはし-そうけい

1714-1774 江戸時代中期の将棋棋士。
正徳(しょうとく)4年生まれ。伊藤宗印の3男。享保(きょうほう)9年養子にむかえられ,大橋本家8代をついだ。明和元年8段となる。安永3年5月20日死去。61歳。江戸出身。号ははじめ宗寿。著作に「将棊図式」。

大橋宗桂(6) おおはし-そうけい

1744-1799 江戸時代中期-後期の将棋棋士。
延享元年生まれ。大橋宗桂(大橋本家8代)の子。大橋本家9代。寛政元年8世名人となった。9段。寛政11年8月14日死去。56歳。江戸出身。名は政秀。号ははじめ印寿。著作に「象戯(しょうぎ)図式」。

大橋宗桂(8) おおはし-そうけい

1804-1874 江戸後期-明治時代の将棋棋士。
文化元年生まれ。大橋宗桂(大橋本家10代)の子。文政5年家督をつぎ,大橋本家11代となる。8段。明治7年3月6日死去。71歳。江戸出身。号ははじめ宗金。著作に「将棋定跡集」など。

大橋宗桂(7) おおはし-そうけい

1775-1818 江戸時代後期の将棋棋士。
安永4年生まれ。寛政元年養子となる。大橋本家10代。7段。文政元年6月28日死去。44歳。江戸出身。号ははじめ宗銀。著作に「将棊妙手」,編著に「将棊明玉」。

大橋宗桂(4) おおはし-そうけい

1688-1753 江戸時代中期の将棋棋士。
元禄(げんろく)元年生まれ。大橋本家7代。正徳(しょうとく)3年家督をつぐ。7段格。享保(きょうほう)9年引退。宝暦3年7月28日死去。66歳。江戸出身。

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世界大百科事典(旧版)内の大橋宗桂の言及

【将棋】より

…なお,駒数の少ない小将棋がゲームの興味を増すために,相手から取った駒を再使用できるルールを確立したのもこのころのこととみなされる。
[江戸時代の将棋]
 戦国時代の武将であった織田信長,徳川家康,豊臣秀頼らは,当時の将棋の上手(じようず)であった本因坊算砂大橋宗桂らを召し出して指させるなど将棋への関心が高かった。徳川幕府が成立した直後に算砂や宗桂は囲碁,将棋の芸人として召しかかえられて,この部門は碁将棋所(ごしようぎどころ)とよばれた。…

※「大橋宗桂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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