日本大百科全書(ニッポニカ) 「大連(中国)」の意味・わかりやすい解説
大連(中国)
だいれん / ターリエン
中国、遼寧(りょうねい)省の遼東(りょうとう)半島南端にある副省級市(省と同程度の自主権を与えられた地級市)で、工業・港湾都市。1951年旅大(りょだい)市と改称されたが1981年大連市に戻った。金州(きんしゅう)、甘井子(かんせいし)、旅順口(りょじゅんこう)など7市轄区と長海(ちょうかい)県を管轄し、瓦房店(がぼうてん)など2県級市の管轄代行を行う(2017年時点)。人口586万4359、市轄区人口386万441(2010)。三面を海に囲まれ、年平均気温10.6℃で四季の区別がはっきりしている。年降水量は550~950ミリメートル。北九州市、舞鶴市と姉妹都市提携を結んでいる。
[河野通博・編集部 2018年1月19日]
歴史
青泥窪(チンニーワー)という一寒村であったが、1898年、ロシアが遼東半島南部の租借権と東清(とうしん)鉄道の敷設権を獲得すると、海が深く大型船の接岸も容易であり、しかも冬季にも凍結しないことに着眼し、大規模な港湾都市の建設に着手した。ロシア語でダルニーと命名されたこの港は、ハルビンに通じる鉄道と有機的に結び付けられ、ロシアの東北進出のための重要な拠点となった。
日露戦争後、ロシアにかわった日本は、まず付近の大連湾の名をとり大連と改名した。そしてロシアの政策を踏襲し、南満州鉄道株式会社の本社を置くなどして、この地を日本の東北経営の要(かなめ)とした。1907年(明治40)に海関(かいかん)が設置され、以後、大連は東北随一の貿易港として繁栄の一途をたどり、やがて上海(シャンハイ)に次いで第2位の貿易量を誇る大貿易港に成長した。
第二次世界大戦後、中国側に返還され、現在も東北の代表的な港として機能している。
[倉橋正直 2018年1月19日]
産業・交通
東北地区最大の水深の大きい不凍港をもち、哈大(はだい)線(ハルビン―大連)、瀋大(しんたい)線の終点であるなど海陸交通の要衝である。また、市街地にある大連周水子国際空港は空の玄関口であるとともに、東北地区最大規模の航空貨物運送基地でもある。19世紀末以降、ロシア、次いで日本の支配下にあり、東北地区の農産物の集散、加工、輸出の拠点として発展し、近代的な商工業都市となった。中華人民共和国成立後、工業化はいっそう進み、造船、鉄道車両をはじめとする機械工業のほか、化学、繊維、製塩、食品加工などの工業が発展している。1984年沿海対外開放14都市の一つとなり、1980年代末からは外資を導入して、近郊に大連経済技術開発区を建設し、パナソニックや三菱電機、キヤノンなどの日系企業が進出している。
大連港は外国貿易のための重要港であり、物流業が盛ん。また、漁業基地としても重要な役割を果たしている。1976年、大慶油田の原油積出し港として大連新港が建設された。旅順口区にある旅順港は海軍基地となっている。
[河野通博・編集部 2018年1月19日]
文化・観光
ロシア領時代、ロータリーを中心とする街区整備が行われたこともあり、市内には数多くのロータリー広場がある。とくに中山広場は、ロータリーに沿って日本支配時代の歴史的建造物などが建ち並び、観光地としても有名。また、老虎灘(ろうこたん)公園、星海公園などの海浜公園、大連自然博物館があるほか、旅順口区には日清戦争、日露戦争の戦跡も点在する。
20世紀初頭、荷揚げを待つ貿易船の西洋人船員たちがサッカーをしていたことからサッカー文化が根づき、本市はサッカーが盛んな土地となった。
[周 俊 2018年1月19日]