安村(読み)あしやすむら

日本歴史地名大系 「安村」の解説

安村
あしやすむら

面積:一四七・七四平方キロ

郡の西端に位置し、北は北巨摩郡武川むかわ村・韮崎市、東は白根しらね町・櫛形くしがた町、南は南巨摩郡増穂ますほ町・早川はやかわ町、西は長野県上伊那かみいな長谷はせ村。村の中央部を長谷村に通じる南アルプス林道が通る。村面積の九六パーセントが森林という山村で、東部には大崖頭おおがれあたま山・高谷たかたに山が、西部には三〇〇〇メートル級のきた岳をはじめ小太郎こたろう山・中白根山があり、村境には櫛形山三峰みつみね岳・横川よこがわ岳・伊那荒倉いなあらくら岳・大仙丈おおせんじようヶ岳・仙丈ヶ岳・小仙丈こせんじようヶ岳・双児ふたご山・駒津こまつ峰・栗沢くりさわ山・アサヨ峰・たか峰・観音かんのん岳・薬師やくし岳・つじ山・千頭星せんとうほし山という二〇〇〇メートルから三〇〇〇メートルに達する山々が連なる。東部には東流して甲府盆地に流れ出る御勅使みだい川が、西部には南流して早川となる野呂のろ川がある。村中央部に夜叉神やしやじん峠があり、ここを糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ)の大断層が南北に走る。古代・中世に関する史料は見当らない。

近世には芦倉あしくら村・安通あんつう村の二ヵ村があり、芦倉村が現芦安村の大半を占める。芦倉村は巨摩郡武川筋に、安通村は同郡西郡筋に属する。二ヵ村とも集落は東部の御勅使川沿いにある。二ヵ村とも慶長古高帳では幕府領、元禄郷帳では領主名は記されていない。宝永元年(一七〇四)甲府藩領となり、享保九年(一七二四)以降は幕府領。同年の支配代官は芦倉村は甲府代官、その後の変遷は元文四年(一七三九)から延享四年(一七四七)まで上飯田代官、以後両代官支配が交互に続き、文政四年(一八二一)以降市川代官支配(芦安村誌)。安通村も初め甲府代官支配だが、以後の変遷は必ずしも明らかでなく、芦倉村と同じと推測される(同書)。入会山が芦倉村南東部から安通村南西部にかけての曾禰・出沢・いなご沢・やろく沢・釜口沢・かつら沢・かみ新居沢の七ヵ所にあるほか、芦倉村北東部の千頭星山南東部にも入会地があり、山元の芦倉村・安通村をはじめ須沢すさわ村・大嵐おおあらし(現白根町)上条南割かみじようみなみのわり村・上条中割かみじようなかのわり(現韮崎市)六科むじな(現八田村)竜王りゆうおう(現竜王町)など三六ヵ村の入会であった(「芦倉村明細帳」芦安村誌など)

安村
やすむら

[現在地名]峰山町字安

竹野川左岸の支流小西こにし川を挟んで位置し、集落は左岸にある。西山にしやま・小西村への道が通る。峯山藩領。

中世末の丹後国御檀家帳に「よしわらの里屋す 御一家也、大なる城也 吉原殿」とみえ、藤田彦三郎・後藤新治郎・後藤総左衛門尉の名が記される。また、当地の稲代吉原いなしろよしわら神社に蔵される天正四年(一五七六)七月二八日の年紀をもつ棟札に「安村」とみえる。

江戸時代に入っても吉原庄のうちで、延宝八年(一六八〇)改の峯山領御知行郷村高帳に吉原庄のうち安分として高三七三・〇七五石(ほかに新田高〇・七四石)が記され、元禄年間(一六八八―一七〇四)の御領地高辻帳に至って安村とでる。

安村
やすむら

[現在地名]明智町横通よこどおり 安主やす

東は岩竹やだけ村、西は土助どうすけ村に接する山中の小村。明徳元年(一三九〇)七月一七日の足利義満袖判御教書写(遠山文書)に、遠山とおやま手向とうげ郷のうちとして「安主名」などがあり、遠山頼景に地頭職が安堵されている。これらの地は以後永正八年(一五一一)まで代々遠山氏に安堵される(同年一二月八日「足利義稙袖判御教書写」同文書)。なお嘉吉元年(一四四一)一二月一五日の足利将軍家御教書写(内閣文庫蔵古文書集)では「案主名」と記される。


あんどむら

面積:四・八八平方キロ

奈良盆地西北部、大和川以北の盆地標高最低部に立地。東と北は大和郡山市、西は斑鳩いかるが町、南は磯城しき郡川西町・北葛城郡河合町。奈良盆地の諸河川は当村南境付近で合流して大和川となり、村西限を富雄とみお川が南流、南部を岡崎おかざき川が西南流。低湿地のため藺草の栽培が盛んで灯心の産地であった。古代の飽波あくなみ郷の地で、斑鳩―飛鳥を結ぶ太子たいし道が東南から西北に村内を斜行している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報