鎌倉末・南北朝期の臨済(りんざい)宗の僧。播磨(はりま)(兵庫県)の人。11歳で出家、書写山の戒信(かいしん)に天台を学ぶ。その後、禅に転じ鎌倉・万寿(まんじゅ)寺の高峰顕日(こうほうけんにち)に参ずる。1305年(嘉元3)宋(そう)より帰国し機鋒峻烈(きほうしゅんれつ)な禅を鼓吹していた南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)に師事して法を嗣(つ)ぐ。1308年(延慶1)南浦の遷化後は京都東山の雲居(うんご)寺に住した。1324年(正中1)赤松則村(あかまつのりむら)は京都・紫野に大徳寺を造営し宗峰を開山とした。花園(はなぞの)上皇は彼に禅要を問い、興禅大燈(だいとう)国師を賜号。正中(しょうちゅう)年間(1324~1326)の宗論に際しては、法兄(ほうひん)通翁鏡円(つうおうきょうえん)(1258―1325)の侍者として清涼殿に参内し、玄恵(げんえ)らの南都北嶺(ほくれい)の諸師を論破した。また後醍醐(ごだいご)天皇も尊信して、建武(けんむ)の新政の際に大徳寺は「本朝無比禅苑(ぜんえん)」の宸翰(しんかん)を賜り、南禅寺と並び五山第一に推された。1341年(興国2・暦応4)大徳寺は五山から除かれたが、峻烈な修行を特色とする宗峰の系統は、五山派に相対する立場を貫き、さらに法嗣(はっす)の関山慧玄(かんざんえげん)が妙心寺を開き、応(大応国師)・燈(大燈国師)・関(関山)の一流は現在の臨済宗諸派の法系上の源流となっている。延元2年・建武4年12月22日(1337年)56歳で示寂。関山、徹翁義亨(てっとうぎこう)、海岸了義(かいがんりょうぎ)(生没年不詳)、虎渓道壬(こけいどうじん)(?―1377)らの弟子がいる。1686年(貞享3)大慈雲匡真(だいじうんきょうしん)国師と加諡(かし)された。『語録』『法語』『碧巌集下語(へきがんしゅうあぎょ)』『大燈百二十則』などの著書がある。
[石川力山 2017年7月19日]
(竹貫元勝)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
臨済宗の僧。大灯国師。播磨の紀氏の出身。11歳のとき書写山円教寺に入って天台宗を学んだが,のちに鎌倉万寿寺の高峰顕日に参じて禅を修めた。しかし,和様化したその禅風に飽き足りず,1305年(嘉元3)新帰朝僧の南浦紹明(なんぽしようみよう)について大陸禅を学び,ついにその法をついだ。正中の宗論に際して,通翁鏡円の侍者として参内し,玄慧(げんえ)法印ら南都北嶺の学匠たちを論破したことは有名である。のち東山の雲居(うんご)菴に隠棲すること20年,やがて24年(正中1)京都の紫野に大徳寺を開創した。花園上皇や後醍醐天皇のあつい帰依を受け,それぞれ興禅大灯,高照正灯の国師号を贈られた。37年12月22日没。門下からは大徳寺をついだ徹翁(てつとう)義亨,妙心寺を開いた関山慧玄(えげん)を出している。その墨跡類は禅の書のなかでもとくに雄渾な逸品といわれ,その峻厳な禅風をよく伝えていて珍重されている。著作に《大灯国師語録》3巻などがある。
執筆者:今枝 愛真
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…山号は竜宝山。開山は大灯国師宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)である。1315年(正和4),妙超が赤松則村の帰依を受けて,雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのが当寺の草創であるという。…
※「宗峰妙超」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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