官省符庄(読み)かんしようふしよう

日本歴史地名大系 「官省符庄」の解説

官省符庄
かんしようふしよう

高野口こうやぐち町全域と九度山くどやま町北端、橋本市西端、かつらぎ町東北部を荘域とする高野山領の荘園。紀ノ川両岸にあるが、大部分は紀ノ川北岸から和泉山脈にかけた地にある。東は高野山相賀おうが(現橋本市)と、西は神護寺領かせだ(現かつらぎ町)とそれぞれ境を接する。荘名は、太政官符・民部省符によってその成立を認められたという事情に由来する。このような成立事情をもつ荘園は多く、本来、普通名詞である官省符庄というよび方が、そのまま固有名詞化したものである。荘内に高野山の政所(現九度山町の慈尊院)があったことから政所まんどころ庄ともよばれた。

成立は永承四年(一〇四九)で、同年一二月二八日の太政官符案(又続宝簡集)はその間の事情を次のように記す。

<資料は省略されています>

つまり、同年五月、高野山金剛峯寺は、伊都那賀なが名草なくさ牟婁むろの各郡に散在していた領田の返進、それに代わる「寺家政所前荒野并見作田」の寺領化、および「寺家山内・政所領里等」の寺領としての保証などを申請し、同年一二月、これが認められたのである。「寺家政所前荒野并見作田」はのちの当庄河北方の大部分の地域(現高野口町域にほぼ相当)、「政所領里等」はのちの当庄河南(現九度山町域の一部)であった。高野山がこのような申請をした背景には、国司の度重なる収公のあったことが同文書によって知られる。

康平年間(一〇五八―六五)以降のある時期には、「伊都郡伊指指(揖里)・大谷両郷田畠参佰余町」が金剛峯寺に封戸代として便補された(大治二年八月一七日「紀伊国在庁官人等解案」林家文書)。このことは、のちの当庄下方に相当する地域(現かつらぎ町域分)の高野山領荘園としての成立を示している。なお、長承二年(一一三三)以前のある時期までに、のちの当庄河北方の地域は、現橋本市山田やまだ付近にまで拡大した(長承二年一一月一一日「相賀庄四至堺注文案」根来要書)

荘名の明確な初見は天治二年(一一二五)七月一三日の官省符庄住人等解(又続宝簡集)で、荘内を河北・河南・下方の三地域に分けるよび方は元暦二年(一一八五)三月五日の官省符庄三方百姓等起請文(続宝簡集)が早い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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