富士下方(読み)ふじしもかた

日本歴史地名大系 「富士下方」の解説

富士下方
ふじしもかた

中世、富士郡を二つに分けた場合の広域地名と考えられ、富士上方に対する地名。下方庄・下方郷、単に下方とも記される。現富士市域のうち加島かじま庄・須津すど庄域を除く、潤井うるい川左岸の現富士市の中心部から北東部地域に比定される。

寛元二年(一二四四)一二月二日付鎌倉幕府政所奉行人連署奉書写(近衛家本式目追加条々)によれば、「富士下方内諸社供僧」らに式日の神事を懈怠することなどをやめるよう告げることを、富士下方政所代兵衛六郎に命じている。弘安二年(一二七九)一〇月日の滝泉寺日秀・日弁等申状案(中山法華経寺文書)によると、富士下方の滝泉ろうせん寺院主代平行智は日蓮の弟子日秀らが多勢を率い弓箭を帯び同寺院主分の坊内に打入り、作毛を刈取って日秀の住房に運び入れたりしたことを幕府に訴えたのに対し、日秀らが反論している。この訴状は日蓮宗のいわゆる「熱原法難」を引起した。日秀・日弁は「富士下方市庭寺日秀」ともみえ(永仁六年「日興本尊分与帳」北山本門寺文書)、市庭寺とも称された滝泉寺の住僧であった。同寺は現富士市入山瀬いりやませ辺りにあったとされる天台宗寺院で、享徳四年(一四五五)までは存続していた(同年三月一五日「今川範忠書下」宝幢院文書)。富士下方には日秀・日弁をはじめとして日蓮信者が多くいたらしく、弘安三年二月日の年紀をもつ妙覚みようかく(現京都市上京区)所蔵の日蓮本尊は日蓮の弟子日興が「富士下方熱原六郎吉守」に与えたもので、西山にしやま本門寺(現芝川町)所蔵の日興本尊は徳治三年(一三〇八)一〇月一三日に書写して「富士下方前住人金藤次」に与えたものである。

康安二年(一三六二)五月二八日今川範氏は福島左近将監の所領であった「富士下方内案主名半分」を伊達景宗に与えている(「今川範氏書下」駿河伊達文書)。応永二三年(一四一六)四月八日、小泉こいずみ(現富士宮市)久遠くおん寺の日伝が弟子日宣に下方諸檀那道場を譲っている(「日伝譲状」小泉久遠寺文書)。同二四年閏五月七日付足利義持御内書写(今川家古文章写)によれば、上杉禅秀の乱鎮圧の勲功として将軍義持から駿河守護今川範政に「富士下方」が与えられており、以後富士下方は今川氏領となったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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