琉球王国最後の国王。尚育王の次子で,長子早世のため1847年7月,わずか4歳で第二尚氏王朝19代目の王となった。66年8月,中国(清朝)皇帝の命により派遣された使節の手で冊封(皇帝名による即位式典)をうける。その治世中,王国は動揺し,内外ともに多事多難を極めた。琉球を日本の版図に編成することを目ざした明治政府により72年(明治5)9月〈琉球藩王〉に封ぜられ,79年3月の〈琉球処分〉(沖縄県の設置)に際しては王宮首里城の明渡しを強要され,臣下とともに城を出た。ここに450年に及ぶ琉球王国の歴史は終止符を打たれた。翌月上京,侯爵に列せられ,東京に屋敷を与えられた。84年8月から翌年3月まで一時帰郷した以外は余生を東京でひっそり送った。死後,沖縄で旧例により国王としての葬儀がとり行われた後,歴代国王の眠る玉御殿(たまうどん)(玉陵)に葬られた。
執筆者:高良 倉吉
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(高良倉吉)
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琉球(りゅうきゅう)王国最後の国王。天保(てんぽう)14年7月8日、尚育(しょういく)の次男として生まれたが、長子早世のため1847年(弘化4)弱冠4歳で王位に上り、1866年(慶応2)中国皇帝の派遣した趙新(ちょうしん)らの手で冊封(さくほう)を受けた。農村の疲弊や王府財政の逼迫(ひっぱく)、異国船来航など、その治世は内憂外患に明け暮れ、やがて琉球所属問題の難局に直面した。1872年(明治5)「琉球藩」設置に伴い「琉球藩王」の称を明治政府より与えられ、1879年には、軍隊、警察を投入して王宮首里城の明け渡しを命ずる政府の要求に屈し、臣下とともに城を出て長い王国の歴史に終止符を打った(琉球処分)。その後、侯爵となり、東京に屋敷を与えられて住んだ。明治34年8月19日死去。歴代国王の眠る玉御殿(たまうどぅん)に安葬された。
[高良倉吉]
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1843.7.8~1901.8.19
第二尚氏王統の第19代で琉球王国最後の王(在位1848~79)。侯爵。父は尚育(しょういく)。1848年6歳で即位したが,冊封は大幅に遅れ,66年ようやく行われた。当時琉球には異国船が頻繁に渡来し,異国人が逗留するなど国事多端,財政的にも窮乏していた。72年(明治5)明治政府は琉球の処分方針にもとづき,尚泰を琉球藩王とし華族に列した。75年から一連の処分が断行され,79年廃藩置県。尚泰は命じられて上京,84年帰郷が許された。没後王陵の玉陵(たまうどうん)に葬られたが,葬儀は王府時代同様に挙行された。
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…79年3月27日,松田は300名の兵士,160名余の警官を率いて〈琉球藩〉を廃し〈沖縄県〉を設置する旨を琉球側に布告し,3月31日限りで王宮首里城の明渡しを命じた。この威圧の前に琉球側はなすすべがなく,国王尚泰(しようたい)はやむなく首里城を明け渡した。ここに450年に及ぶ琉球王国はその歴史を閉じたのである。…
※「尚泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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