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政治家。戸籍上は安政(あんせい)6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清(にっしん)戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣では外務省参事官、第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣では文相に就任したが、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で辞職(1898)。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)の誘いに応じて憲政本党を脱党して立憲政友会の創立に参画、総務委員を務めた。1903年伊藤の桂太郎(かつらたろう)内閣との妥協に反対して脱党、小会派を経て1909年に復党した。また1903年東京市長となり1912年まで在職。1912年(大正1)12月第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が倒れると、国民党の犬養毅(いぬかいつよし)とともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣と妥協するとふたたび脱党、1914年第二次大隈内閣の法相に就任。1916年憲政会の創立に参画、筆頭総務となった。
第一次世界大戦後には国際協調主義の立場から軍縮論を提唱。また普選運動の先頭にたち、憲政会の普選運動を不徹底と批判したために憲政会から除名され、革新倶楽部(くらぶ)に参加。その後第二次憲政擁護運動に参加、治安維持法制定には反対の立場をとった。政友会との合同には参加せず、議会内ではしだいに孤立するなかで、1928年(昭和3)には田中義一(たなかぎいち)内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年には治安維持法の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にし、戦時中もその立場を貫いた。とくに1942年の翼賛選挙には推薦制を批判した公開質問状を東条英機(とうじょうひでき)首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選。また長年の同志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され有罪判決を受けるが、1944年の大審院では無罪となった。第二次世界大戦後は、戦時中の姿勢ゆえに時代の脚光を浴び、国会では長老的存在として発言した。昭和29年10月6日死去。
[北河賢三]
『伊佐秀雄著『尾崎行雄』(1960・吉川弘文館)』▽『『尾崎咢堂全集』全12巻(1955~1956・公論社)』▽『西川圭三著『咢堂・尾崎行雄の生涯』(2009・論創社)』
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日本近代の代表的自由主義政治家。号は咢堂。相模国又野村(現,神奈川県相模原市)出身。慶応義塾中退後新聞記者となり,1882年立憲改進党創立に参画。87年の三大事件建白運動では,保安条例による東京退去処分を受けた。90年第1回総選挙に三重県から当選,以後25回連続当選,代議士生活63年。98年大隈重信内閣の文相となったが,日本に共和制を想定した演説が不敬と非難されて辞職。1900年立憲政友会の創立に参加。03-12年東京市長。13年第1次護憲運動には犬養毅とともに桂太郎内閣打倒の陣頭に立ち〈護憲の神〉とうたわれた。桂内閣打倒後政友会の山本権兵衛内閣支持に抗議して脱党,中正会を結成。14年大隈内閣の法相に就任,16年憲政会に加わる。第1次世界大戦後いちはやく普通選挙運動の先頭に立ち,労働者のデモに加わり,憲政会幹部と対立。21年脱党,翌年革新俱楽部に加わる。一方ワシントン会議に先立ち軍備縮小同志会をおこし,吉野作造らとともに熱心に遊説した。25年治安維持法制定に最後まで反対。同年革新俱楽部解体後は無所属となった。以後政治的孤立の中で軍国主義化に反対,戦時下の43年翼賛選挙を攻撃,不敬罪で告発されたが翌年大審院で無罪となった。戦後は国会の長老格であったが,53年の総選挙で落選し政界を引退,国会から名誉議員の称号を贈られた。60年,その憲政に対する貢献をたたえ,尾崎記念館(現在は衆議院憲政記念館)が国会前に建設された。《尾崎咢堂全集》全12巻(1955-56)がある。
執筆者:松尾 尊兊
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(伊藤隆)
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1858.11.20~1954.10.6
明治~昭和期の政党政治家。号は咢堂(がくどう)。相模国生れ。慶応義塾中退。明治14年の政変で統計院を退官し,立憲改進党結成に参画。大同団結運動にも参加し,保安条例で東京を追放される。第1回総選挙から衆議院議員に25回連続当選。第1次大隈内閣で文相となるが共和演説事件で辞任。立憲政友会に憲政本党からただ1人参加。1903年(明治36)から東京市長。第1次護憲運動では第3次桂内閣打倒の中心的役割をはたすが,山本内閣との提携に反対して脱党,中正会を結成。第2次大隈内閣には法相として入閣,大浦内相の汚職事件を追及。憲政会総務となったが普選論をめぐる対立で脱党,革新倶楽部に参加した。第2次護憲運動以降は無所属。昭和期には日独伊三国同盟反対,大政翼賛会批判の立場から活動。翼賛選挙では不敬事件をひきおこした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(2013-6-17)
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…またG.ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も,農園のサクランボであった。しかし,アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は,1909年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノなどをもととしている。ただし同年に贈られた2000本の苗木は虫害のためすべて焼却され,12年に改めて3100本が贈られた。…
…天皇や皇族あるいはその墓などに対しその名誉を毀損する行為を処罰する罪名。不敬罪は,近代天皇制国家の成立にともない1880年(明治13)7月17日に公布された刑法典(旧刑法と呼ぶ)の第2編第1章〈皇室ニ対スル罪〉のなかに登場し,1907年の旧刑法全面改正(1908施行。以下,明治40年刑法と呼ぶ)においても若干の修正を受けたのみで残り,47年(昭和22),新憲法の施行にともなう刑法一部改正によって廃止されるまで,天皇や天皇制に関する思想や学問・言論の抑圧,さらには新興宗教団体の弾圧に猛威を振るった。…
※「尾崎行雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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