朝日日本歴史人物事典 「山内万寿治」の解説
山内万寿治
生年:万延1.3.29(1860.4.19)
明治期の海軍軍人。広島藩士山内仁右衛門,こうの次男。明治6(1873)年平民出身者として初めて海軍兵学寮(のち海軍兵学校)に入学,12年に首席で卒業。同期に斎藤実,坂本俊篤。17年ドイツ,オーストリアに留学して兵器製造を研究し,日清戦争(1894~95)時には呉(呉市)の大砲製造工場の整備促進を求めて伊藤博文首相と直談判,承認を得るやヨーロッパに出張して機械を買いつけ速射砲製造工場を完成した。戦後には大砲の材料や装甲板を作る製鋼工場の建設を図ったところ,八幡製鉄所との二重投資だとする反対論が起こり,これに対して第15,16議会で説明に努め,予算案を通過に導いた。日露戦争(1904~05)に際しては呉海軍工廠長として装甲巡洋艦の建造を主張,監督して主力艦国産化への道を開いた。38年中将,40年男爵。戦後は鎮守府司令長官を務める一方,日本製鋼所,神戸製鋼所など民間企業の育成に努め,43年予備役編入後は貴族院議員,日本製鋼所会長。海軍の造兵,製鋼部門,さらには民間鉄鋼業への貢献は大きかったが,兵器輸入商の高田商会やイギリスのアームストロング社などの業者との関係の深さも噂された。シーメンス事件(1914)に際しては検事小原直の取り調べを受け,帰宅後拳銃自殺をはかる。起訴はされなかったが,大正4(1915)年依願免官。<参考文献>鈴木淳「山内万寿治」(『日本歴史』1990年1月号),小原直『小原直回顧録』
(鈴木淳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報