出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
山地を利用した城をいい,日本では古代の山城と,平安時代半ばころから始まり,中世以降発達するものの2種がある。後者は山城(やまじろ)と呼ばれることも多い。古代の山城は大陸,とくに朝鮮半島の築城法の影響によるものが多く,三方を山に囲まれた谷を含めた縄張をもち,稜線またはその外側に鉢巻状に城塁を築き,谷の出口に城門や水門を築く。これを朝鮮式山城と呼びならわしてきたが,その内容は一様ではない。大きくは,百済滅亡後,新羅・唐連合軍の進攻にそなえて660年代に築かれた大野城から高安(たかやす)城にいたる一連の城(いわゆる天智築城の城)と,それ以前の築城と考えられる神籠石(こうごいし)とに分けられる。天智の築城は,百済の遺臣の指導により,防御正面に急峻な地形をとり,背後に谷の出口をもつ大規模なもので,城内に多数の兵舎や倉庫群をもっている。神籠石はそれに比べやや小規模であるが,それにも北九州に分布する防御正面を平地に近くつくって谷を含み,背後に山稜をとり込む斜面型(九州型)と,山頂に鉢巻形に列石をめぐらす瀬戸内型の2種がある。神籠石の構築年代については,6世紀の筑紫君磐井(いわい)の乱を契機とする説から,7世紀後半説まである。8世紀の吉備真備(きびのまきび)築城による怡土(いと)城は,九州型神籠石に縄張は似るが,稜線に多数の楼閣を設けた中国式のものであった。
山頂に郭を構えた山城は,すでに11世紀に始まる東北地方の争乱にみられる。山頂に主郭を置き,尾根に階段状に副郭を連ねる形式は,近世に至るまで連続して用いられる。主郭のみの単郭式のものもみられるが,尾根に階段状に郭を並べる連郭式のもの,さらに放射状に副郭をつくるものなど,時代とともに発展した。しかし大名,国人層あるいは土豪,百姓惣郷組などその築城者によっても,各地各様,千差万別である。郭と郭の間に空堀を掘り,両方から土塁を築いて入口をつくる虎口(こぐち)や,郭をめぐる土塁などを設けて防御を固めているのが一般的であった。戦国大名が成長してゆくと,山上から山麓の居館部にまで連結される複雑な構えに発展する。城門などに一部石垣を築くこともあるが,一般に大規模な石垣を築くのは鉄砲伝来以後のことで,江戸時代に入ると山城は築かれなくなる。
→城
執筆者:坪井 清足
山城は,侵略軍から村民を守るためのもので,国家形成期から現代に至るまで使用された。その遺跡は朝鮮半島全域に及び,総数は2000をはるかに超えている。構造は一般的には三方を山地に囲まれた谷地を選び,その稜線の外側に沿って鉢巻形に城塁を築き,谷の出口に城門や水門を築く。村落間の抗争で村民が山谷に避難したことなどから始まり,初現は三国時代以前にさかのぼる。国家形成期には村民や都民の居住地を防衛するための城郭とともに,住民の避難用の山城が造られるようになった。確認される最古の山城は,紀元3年に築城し,高句麗王都民を収容した尉那巌城である。4世紀までに,高句麗では山城がほぼ全土に築かれた。この時期の朝鮮中部・南部では居住地防衛の城郭が中心で,百済の都城などに山城がみられる程度である。5世紀後半以後,新羅,加羅諸国の発展にともなって,南部でも山城が本格的に築城されるようになった。7世紀に隋,唐と戦った高句麗は,山城を避難用のものから戦闘用に変えたが,百済,新羅の山城もその影響を受けた。672-691年に,統一新羅の九州五小京制が完成すると,地方行政の政策として,山城が政治的示威に使われることもあった。その後,後三国時代など国内の争乱期にも,住民の避難用として山城が利用されたが,とくに外部よりの侵略期には山城の築城が多かった。北部ではモンゴル,清の侵入,南部では倭寇と豊臣秀吉の侵入時である。さらに,近代の洋擾,対日義兵闘争,現代の朝鮮戦争まで,山城はときには戦闘用にも用いられたが,主として住民の避難用に使われた。
執筆者:井上 秀雄
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城郭の地形による分類の一つ。山に築かれた城で,ふつう山麓から城までの高低差が200m以上のものをよぶ。南北朝期には村落を支配する機能がなく,広域の合戦に対応した400mの高山に城が築かれた。室町時代になると山城であっても在地支配機能が不可欠であったため,より城下に近い山が選ばれた。戦国期の大名の拠点山城では,織田信長の岐阜城,毛利元就(もとなり)の郡山(こおりやま)城などのように,山頂の主郭に大名自身が居住し,大名を頂点とした身分差が高さと距離によって空間的に表現された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…福岡県久留米市高良大社をめぐる切石列石を古く神籠石と呼んでおり,九州から瀬戸内一帯にみられる山をめぐる列石遺跡をこの名で呼ぶようになった。高良大社のそれから神域を示す施設との説もあったが,近年の調査で列石の上部には版築の城壁が築かれていることがわかり,古代山城施設であることが明らかとなった。列石列が,高い所では山頂を取り巻くように,山脚の近くではいくつかの小さな谷を取り込んで斜面に斜めに築かれる九州型と,列石列が山頂を鉢巻状にめぐる瀬戸内型がみられる。…
…山地を利用した城をいい,日本では古代の山城と,平安時代半ばころから始まり,中世以降発達するものの2種がある。後者は山城(やまじろ)と呼ばれることも多い。…
…また,居住施設としての比重の高い館(たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。【村田 修三】
【古代】
古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石(こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城(さんじよう∥やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。 天智朝の百済人の指導による築城は,実戦的に防御正面に急峻な地形を選び,その背後に山稜がめぐる谷をとりいれた楕円形の平面をもち,山稜を石垣や土塁でつないでその間に数ヵ所の城門を配している。…
…このことから,匈奴や高句麗だけでなく,中国周辺の諸民族の反乱が起こり,新の滅亡の原因となった。最初の王都とみられる桓仁(かんじん)地方には,典型的な高句麗山城である五女山城と,桓仁の東15kmの高力墓子村の高句麗墓群とが知られている。五女山城は,通化に通ずる陸路と渾河の水路を扼する交通の要衝にあり,三方が高い山や絶壁で囲われ,二つ以上の谷間をとりこみ,南方だけが緩斜面になっている地形(栲栳(こうろ)峰)に山城を作っている。…
…また,居住施設としての比重の高い館(たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。【村田 修三】
【古代】
古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石(こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城(さんじよう∥やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。 天智朝の百済人の指導による築城は,実戦的に防御正面に急峻な地形を選び,その背後に山稜がめぐる谷をとりいれた楕円形の平面をもち,山稜を石垣や土塁でつないでその間に数ヵ所の城門を配している。…
…このように西方や北方の勢力を結集したモンゴルの侵略とこれに対抗,あるいは追従するなかで,民族文化を形成していったことをうかがうことができるであろう。朝鮮神話
[侵略に対処する山城]
朝鮮はユーラシア大陸の東端にある半島で,大陸の諸民族の中では比較的民族間の戦争の少ないところである。しかし,日本のように民族間の戦争をほとんど意識しない社会とは異なり,日常生活の中でもこの点に留意してきた。…
…白鳳美術の発端を白村江の敗戦とするゆえんは,天智朝(662‐671)はわずか10年に満たないものの,この時代,新たに初唐様式を積極的に摂取しようとした点に,文化史・美術史上の画期を求めようとするためである。
【天智朝】
白村江の敗戦後,天智朝は大野城はじめ各地に山城(さんじよう)を築き,近江大津宮へ遷都するなど防備を厳にしながら,律令国家建設にひたむきな前進をとげようとする。百済滅亡後,多数渡来した百済人や,その後の半島の不安定な状況を反映する唐,新羅,高句麗からの頻繁な遣使を通して,初唐の新技術が導入されたと考えられる。…
※「山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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