岩切村(読み)いわきりむら

日本歴史地名大系 「岩切村」の解説

岩切村
いわきりむら

[現在地名]仙台市岩切

田子たご村の北西一帯を占め、村域は七北田ななきた(冠川)の両岸にわたる。南西につる村方面からの丘陵が延び、南は水田地帯で端郷の足軽町今市いまいち、その東の同川右岸沿いに端郷余目あまるめがある。対岸は高森たかもり(一〇六メートル)を含む丘陵地。七北田川左岸沿いの曹洞宗東光とうこう寺・台屋敷だいやしきなどには多数の横穴群が発見されている。古くより当地は南の陸奥国分寺から東の多賀城に通じる道と、多賀城から北の七北田(現泉市)吉岡よしおか(現黒川郡大和町)方面に通じる道との接点であった。東光寺は多賀国府の霊廟と伝え、同寺東の現八坂神社の地にはかつて式内社志波彦しわひこ神社が鎮座していた(明治七年塩竈神社境内に遷宮)余目は「和名抄」にみえる余戸あまるべ郷の遺称地とされ、中世には留守氏の所領のうちであった。同氏所領には当村名ほか七北田川流域にあったとされる冠屋かぶりや市場などがあり、南北朝期には同氏の拠点として岩切城が高森山に造築されたと思われる。

〔中世〕

文治五年(一一八九)の奥州合戦後に陸奥国留守職を命じられた伊沢家景、のち改め留守氏の所領で、同氏の重要な拠点であった。文暦元年(一二三四)一一月二九日岩切村の地頭職などが、同年七月の留守氏二代家元の譲状に従って娘乙姫に譲渡されることが認められている(「関東下知状」留守文書)。文永六年(一二六九)一〇月一八日には乙姫より養子留守家政に譲られ、これに対し建治二年(一二七六)閏三月一一日将軍家政所下文(同文書)が出された。

岩切村
いわきりむら

[現在地名]宮崎市郡司分ぐじぶん

東流する清武きよたけ川左岸に位置し、那珂郡に属する。西は宮崎郡加納かのう(現清武町)。郷帳類では郡司分村に含まれた。「日向地誌」の郡司分村の項には「岩切ハ元ト或ハ本村ノ字地ニシテ之ヲ分テ両村トセシハ旧藩主ノ私行セシ所ニシテ未タ之ヲ公ニセサル所ナリト見ユ」と記されている。寛文四年(一六六四)清武御検地合書寄帳(「万覚」湯地家文書)に村名がみえ、田畠数六七町一反余・分米九六四石余、うち田数五三町六反余・分米九二四石余、畠数一一町一反余・分米二七石余(うち麻苧五貫一七〇目・分米四石余)、樹木分米五斗余、衆中屋敷として畠数二町三反余・分米七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報